ノルウェイの森 / 村上春樹

僕にはハルキストの友人がいる。ハルヒストの友人もいるが、彼については次の機会に譲るとして、今日はハルキストだ。こいつには個人的にかなり助けられたので、その彼が好きな村上春樹をdisるのは気が引ける。だが、断っておく。やっぱり僕は村上春樹が嫌いだ。張り倒したい作家ランキングの上位に常に食い込んでくる。余裕しゃくしゃくなところや、主人公がとくに何もしてないのにモテてしまうあたりとか、全体的に緊張感を感じられない。
そのような安楽な小説ではなく、ひりひりとするような小説を僕は好んで読んできた。その最たるものは、村上龍「五分後の世界」だろう。しかし、昔と違って世の不条理をそれなりに突き付けられた今の僕は、村上春樹の安楽さは単なる気楽さではないのだと思うようになってきた。それは、どうすることもできない無力さに打ちひしがれた者の、仕方なしの妥協としての、安楽さなのだと思う。
ちょっと何を言っているかよくわからないと思うので、まず具体例に入ろう。例のハルキストについて少し語る。大学で出会った人間の中でも、彼ほど僕の人生を揺り動かした人物はいないだろう。彼にはよく恋愛アドバイザリー業務に従事してもらったし、また文学青年同士の愚にもつかない馬鹿話もした。また彼はイケメンで話も異常に上手いので、まるで僕と彼の関係はワタナベと永沢さんの関係のようなところもあった。さすがにダブルデートとかはしなかったが、彼とつるんでいるだけで随分とリア充への道を歩んでいたように思う。また彼はキズキのように、人の面白い部分を発見するのが上手く、彼と話していると自分がなんだかとても面白い人間のように思えた。
なんといっても彼は、人を褒めた。僕は、ほとんど人を褒めない。というか、褒めたらなんか負けた気がするくらい器の小さい男なので、彼の度量には素直に敬服した。彼といると、自分が上等な人間なのだと信じられたし、僕の人間嫌いもいささか緩和された。
そんな余裕しゃくしゃくに生きているように見えた彼の唯一の欠点が、軽薄なところだった。マジック・ザ・ギャザリングフレーバー・テキストみたいなことを、平気で言う。場の空気をまとめる点に特化した、美しいけれども、空虚な言葉なのであった。なめてんのか、と小一時間問い詰めたい
しかし、今となってはそんな気持ちはもうない。彼もまた、ワタナベのように近しい人がメンヘラで苦労した人間だったことを僕は知った。そして、そのような埋めがたい不条理に対しては、人はへらへらやり過ごすことしかできない。ひりひりとした現実は、フレーバー・テキストで覆い隠してしまうべきなのだ。この村上春樹にも通じる安楽さは、軽妙なフレーバーは、彼の生存戦略なのであった。
だからといってそのフレーバー・テキストを好きになれるわけではないが、その裏に隠された心情を思いはかると、これはこれで味わい深く、一概に切って捨てることはできない。「ノルウェイの森」を再読して思うことは、そんな彼のフレーバー・テキストをまた聞きたいという懐古の情であり、僕にとって「ノルウェイの森」はそうした個人的な感情を引き起こす小説となっている。一般的な作品価値は、知らん。