自分の欲望を持たない者は、他者の欲望の対象を欲望するしかない――西加奈子「うつくしい人」

そのような者は、誰かがほしがるものしか、ほしがることができない。本作の主人公は、まさに、他者の欲望に欲望していたのであり、そのどこまでもいってもキリのない地獄に息苦しさを覚えていた。一方で、姉は、自分の欲望を持つ者<うつくしい人>であった。姉は、他者の欲望のゲームにおいては、底辺に位置するみじめな存在かもしれない。だが、自分の欲望を自覚し、他者の欲望を意に介さないという点において、自由であり、それを主人公は<うつくしい>と呼ぶのであった。この醜さが美しさへと転置される展開は見事であり、すがすがしい思いで読んだ。

だが、違和感を覚えたところもある。

たとえば、主人公にとって、<他者>とは何者なのだろうか。主人公が気にしている、<皆>とは、具体的に誰を指すのだろうか。

私は「皆が認める」、社会的に地位のあるいい男と付き合いたい。「皆が羨ましがる」立派な職につきたい、絶対に人に面倒がられる女にならない。皆の前で取り乱したくないし、空気の読めない女などと言われたくない。惨めな30代を送りたくないし、若い子に馬鹿にされたくない。*1


あきらかに、<皆>とは同姓の女であり、男ではないのである。男は、欲望の対象であり、モノであり、勝者に付与されるトロフィーみたいな扱いだ。男からしたら、主人公は、親の金でマンションに住み、親のクレジットカードで(多少の後ろめたさを感じつつも)買い物するという、経済的に自立できていない女にすぎない。なにも、総合職女子だけが一人前であるとは言わないが、これほど親に経済的に依存しておきながら、それに対してあまり恥ずかしさを感じていない点で、こいつ正気(マジ)か……?という気にさせられる。男の基準で言えば、かっこ悪い。自分の収入以上の支出を平気でする時点で、多くの男に「面倒がられる女」である。少なくとも、結婚相手としては面倒くさい。

結局のところ、主人公のいた世界は、女同士のマウンティング合戦であった。主人公は、その戦いに疲れたから、そうではない自分だけの基準で自分を肯定しよう、たとえそれがどんなに変だと<他者>から見られてもかまわない! と転進しようとする。しかし、その先も、なんだか男からすると、依然として狭い世界なんじゃないかなあ、という疑念が拭えない。

一方で、広い世界を見せてくれるキャラクターもいた。坂崎は、しょぼくれた中年バーテンダーであるが、前職はアメリカの大学の物理学者である。自然科学の研究者は、人類がいままで一度も考えたことのないような問いを立て、それに答え、人類の知識の総量を拡張する仕事である。そうして得た真理は、文明全体を前進させうる。クソどうでもいい狭いコミュニティ内の見栄の張り合いに比べたら、その仕事は、たとえ坂崎のように失敗したとしても十分に尊いものだ。少なくとも、このやり方ではうまくいかない、この仮説はデータによってサポートできない、そうした教訓を残すことができる。

まったくの私見であるが、主人公は、せっかく旅という、偶然によって自らの世界を拡張させるチャンスを得ながらも、十分にその機会を活かしていないように思える。作中で語られなかった坂崎のストーリーこそ、ありうるひとつの別のベクトルであり、息苦しさからの解放につながる一手だったのではないか、と思う。

「うつくしい人」に似たような作品で、芥川賞受賞作の村田「コンビニ人間」という中篇がある。姉と同じく、不器用で、空気が読めず、純粋な人間が出てくる。だが、彼女(コンビニ人間)は「うつくしい人」の姉と違って、実家が金持ちでもなく、美人でもない。そうすると、とたんに厳しいものがある。人生ハードモードとなる。
たとえば、コンビニ人間は、他人の言動を額面どおりに受け取る、という性格だ。このため、マニュアルの整備されたコンビニのバイトはそつなくこなすことができる。しかし、「男と付き合ったことないのはだめだ。結婚しないなんておかしい」と言われると、とくに恋愛感情もないのに、その辺でつかまえた男を家に入れて飼うようになる。カブトムシでも飼育するかのように、男と同棲するのだ。こうした異常なシーンは、正直なかなか肯定しがたい。
「うつくしい人」の姉を肯定できるのは、姉が美人で、ぶっちゃけ適当にやってても実家が太いからなんとかなるでしょ、という安心感に基づくものであり、そうしたアドバンテージがない状態で「自分の基準で生きる」をやってしまうと、絵的に厳しい。それでも、<うつくしい>と称えることが、はたして可能だろうか。

自分の、自分だけの欲望を持とう、そしてそれに従って生きよう、たとえほかのやつらがなんと言おうとも! たとえ皆からクズと呼ばれようとも!

そうしたスローガンは美しい。

しかし、この理想を掲げて実行するのにも、それなりの諸条件があるのではないか。そして、他社の欲望に欲望することは、ある意味で、他社に共感することであり、コミュニケーションの一種として、社会に適応するために不可欠な儀礼なのではないか。

そのように思うのである。

*1:140p