何かを定義するのは、哲学者の仕事であるらしい。
世界とは何か。時間とは何か。認識とは何か。言葉とは何か。
定義されるのは、きまって、抽象的で、思弁の対象とすることが格好いいものだ。そして哲学者が相手しないような何かを、作家が相手にする。恩田陸は、この作品で、「青春」とは何かを定義しようとして、夜に全校生徒がひたすら80km散歩するという謎の行事の中、二人のわだかまりが融けていく物語を描き出した。それは「人生」が本格的に始まる前であり、それは男女の「恋愛」でもなく、シンプルで爽やかな後味の「友情」でもない。しかし、「青春」とは何なのだろうか。私たちはどう「青春」に向き合うのが正解なのだろうか。
わたしたちの「人生」はまだ先だ。少なくとも大学に入るまでは、あたしたちの「人生」は始まっていない。暗黙のうちに、そういうことになっている。進学校というレッテルの箱に入っている今は、全ては大学進学の準備が基本にあって、「人生」と呼べるだけのものに専念できる時間はほんの少ししかない。せいぜいその乏しい空き時間をやりくりして、「人生」の一部である「青春」とやらを味わっておこう、と思うのが精いっぱいである。
「青春」とやら、である。なんか「青春」しなくちゃいけないっぽい空気になってるから、とりあえず済ませておくか、ぐらいの勢いなのである。なんなのだ、「青春」とは。思い出作りなのか。主人公の一人である融は、「青春」について、あまり意識せずに通り過ぎていくべきもの、と考えている。彼にとって人生は、大学を出て、社会で働き、自立してからこそ本番開始なのだ。「青春」的なるものは雑音でしかない。もう一人の主人公たる貴子にとっても、他者の「青春」を好意的に受け止めこそすれ、どこか冷めてもいる。「青春」の後に続く、長い坂道を登るかのようなしんどい道のりを、すでに予想しているかのようだ。
詳細は忘れてしまったが、「百舌谷さん逆上する」10巻で「君は今、青春を感じているかもしれない。人生が変わるかのような、永遠のような一瞬を味わっているかもしれない。でもそれは、すべて幻想だったことが次の日にわかる。美しくもなく、なんだか無様にダラダラ続くのが人生だ」という言葉があった気がする。そうだそうだ。煌めく一瞬によって、人生が光り輝くものになるんだったら苦労しないのだ。むしろ、誰からも評価されることなく、いかに日々押し寄せる雑事を片づけていくかという、孤独で、ある意味で英雄的な努力が、人生の大半を占める。そこに「青春」の介在する余地はあまりに小さい。
結局いろいろ書いてみたが「青春」とは何かを定義することは難しく、それを語るためには、一つの物語を要するのだろう。