色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 / 村上春樹

まず始めに断っておくが、村上春樹はたいして好きじゃなかった。メッセージがないので、読んでも、だからどうした、というふうにしか思えなかった。また、現実離れした会話も、小癪だった。ところがどうしたわけか、今回の小説はすんなりと読めた。相変わらずメッセージはないが、僕のほうとしても以前ほどメッセージ性にはこだわらなくなっていた。どうせ本を読むのだから、なにか人生の糧となるような、前向きな提言がほしい。以前はそう考えていた。だから村上龍の小説は大好きだったし、彼の小説によって救われた面は多いにある。
しかし、学生を終えて将来に対するレールをがっしりとひいてしまった今、もはや他の進路には興味がなくなってしまった。もっと正確に言うと、興味がないわけではない。興味を持ったとしても、この身体をそっちの方向に進路転換することが現実的ではないので、あらかじめ情熱を感じないようにしている、ということだ。
では、もはやメッセージが雑音でしかなくなったときに、人はいかにして癒されうるのだろうか。村上春樹の出した答えはこうだ。すなわち、その淡々と過ぎていく、日々の作業を、誰しもがこなしているものだと確認させること。
どういうことだろうか。どんな個別のレールを進んでいる者であれ、朝起きて朝食を取り、洗濯をし、週末には部屋を掃除し、適度な運動を取り、明日また起きるために眠ること、これらの雑事からは逃げることができない。そして自分の進行方向に疑問を抱く人間には、えてしてこれら雑事を煩わしく感じられる。人生の岐路に立たされているというのに、なんで自分はこんな雑事に時間を取られなくてはならないのか、と苛立ちがつのるわけだ。
この視点から本作の主人公である田崎つくるを見てみよう。彼は、日々のタスクをこなしていくということにかけては、ものすごくタフだ。街路樹のようなタフさを持っている。仲良し五人組から切り捨てられ、毎日死ぬことばかり考えていた時期においても、彼は一貫して大学の授業に出てノートを取り、食べ物を腹に詰め込む作業を続けていた。そこに自己実現だとか、自分の幸福のためだとか、前向きなモチベーションは一切なかった。そして時間が経つにつれ、いつしか彼は以前ほど仲良しグループのことで気をもむこともなくなっていた。
相変わらず、友達もいない。ゆえに、また別の人と調和のとれた人間関係を築く、という再挑戦もできていない。結局、過去の事件の発端はわからず仕舞い。なにもかもが中途半端で、もやもやとしたものは消えない。しかし、彼には、レールを進むことをやめ、全てを仕切り直しにする、という選択肢はなかった。日々の雑事は待ったなしで襲いかかってくる。この、決して逃れられない敵と、(惰性とはいえ)対峙し続けることのできるタフさに、僕は少しだけ、ほんの少しだけ癒されるのだ。