半島を出よ / 村上龍

名作。基本的に村上龍の小説は没交渉な性格の人間に居心地いいように作られています。要するに「普通」とか「一般」から浮いたアウトサイダーやマイノリティに向けて書かれた小説なので、そういったある種の痛々しさ・普通にするすると生きていけない不器用さをもっている人がどっぷりとハマるわけです。まあ自分がそうなので多分他の人もそうなんじゃないかと推測するんですが。さて、そういった取り残された人々の文脈を描きつつも、村上龍は彼らアウトサイダーのために新しい価値観を提示しようとします。
普通こういった場合、家族愛や友情、恋愛などの「周りを信じろ!」的な結束によって、物語としてオチをつけるわけです。ですが村上龍はそんな「普通」に嫌気がさしているのです。なに偽善ぶってやがる。そんな甘くないだろ。というわけで村上龍は一人でも生き残ること・自立することを作品のテーマにしています。他者との関係性についてとやかく言うのではなく、まず自分がどうあるのか・どうあるべきかを語るのです。人間関係をないがしろにしてるとまでは言いませんが、やっぱり優先順位は低いです。これが自意識の肥大した没交渉な人間にとってはカタルシスなんですね。本当の自分探しを肯定してほしい人間にとっても心地いいです。
だから村上龍の小説においては、自分と世界は衝突します。世界のほうを屈服させようとすると「愛と幻想のファシズム」みたくなり、世界から逃げようとすると「限りなく透明に近いブルー」みたくなる。ただどちらの路線も極端で、現実的に使えるような価値観はやはり提示されていません。「希望の国エクソダス」は経済という即物的な武器で勝負した点はよかったのですが、ストーリーに説得力が欠けます。「半島を出よ」になってようやく村上龍は、現実的に使える価値観を、説得力のある舞台で提示できたように思います。それは、自由です。
自分と世界が衝突するなら、なるべく世界と関わらなければいいだけです。ぐだぐだうるさい説教なんか無視して勝手に生きればいいよということですが、この当たり前の事実を伝えるためだけにこの作品はあります。問題意識を持てとか危機感を抱けとか「ヒュウガ・ウィルス」のころは言っていましたが、そうした規範的な訓示をたれることすらも本書では放棄しました。

実際に危機に襲われるか、あるいは差し迫った危機の恐れでもない限り、ほんとうの変革は起こらない。
ミルトン・フリードマン「資本主義と自由」

たとえ組織や人がゆっくりと腐っていくような状況にあっても、説教でそれを変えることはできません。実際に腐った部分が切り捨てられないかぎりは何も変わりません。そしてそうした決断を下せるのは滅ぶ一歩手前といった切羽詰まった状況です。どうせ危機が起きない限り変革をすることはできないのなら、危機を取り返しのつかない惨事と捉えるのでなく、起こるべくして起こる必然と肯定してもいいじゃないですか。こうでなければならないという理想・規範をかかげ、それよりも劣った状態として現実を憂う窮屈な生き方よりも、危機のリスクを承知で勝手気ままに生きたほうが自由でいいじゃないですか。
本書は北朝鮮による福岡占領という危機を通して、自由を多面的に描いた名作だと思います。僕は泣きました。