かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのに相違ない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか──イエスはさう反問してゐる。
しかし、この政治の限界にこそ、文学の本領がある。
ぼくもまた「九十九匹を野におき、失せたるもの」にかゝづらはざるをえない人間のひとりである。もし文学も──いや、文学にしてなほこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか。
どんなに善い政治でも九十九匹に届くのが限界なのだ。それが社会正義の限界でもある。社会とは相いれない者、全体へと帰属できない者、彼ら個人的な者たちの救済は、やはり個人的な物語によってしか成し得ない。
誰かを救いたいという政治的な動機が、この一匹に届くことはない。そういった他者からの思いは、説教がましく全体への迎合を説くだけだ。たいして文学は、その一匹が自らの生を綴った、個人的な慟哭である。失せたる一匹たちは、その姿を見て、「まさにこれは自分のことではないか」と驚き、そして世界から幾ばくかの承認を得るのである。失せたる一匹は自分だけではないということを彼は確認し、世界はそう捨てたものではないなと思うのである。