ひとは自分の痛みを知っている、などという主張には何の意味もない――ウィトゲンシュタイン「確実性の問題」

ウィトゲンシュタイン「口では懐疑主義を唱えていても、身体は現実の確実性に正直だな。しっかりと言語ゲームしているじゃねぇか、ぐへへ」
分析哲学者「くやしい…でも言語ゲームしちゃう!」ビクンビクン
下劣な要約だが、つまりはこういうことではないか。

五〇四 私があることを知っているかどうかは、私の主張が証拠によって是とされるか、それとも非とされるかにかかっている。ひとは自分の痛みを知っている、などという主張には何の意味もないのだ。*1

「私は、地球が100年前からもあったことを知っている」と、誰かが述べるとき、彼の主張が正しいか間違っているかは、地質学的な調査から検証できるだろう。あるいは101歳の老人に尋ねてみても検証できるかもしれない。どちらにせよ、彼はそういった証拠をすでに耳にしていたので、その把握した知識をもとに例の主張をしたわけである。
だが、その彼が「私は、この本の裏表紙が緑色であることを知っている」と述べた場合、哲学的にはとたんに奇妙なことになる。彼はそれが緑色であることを、はたして知識として把握しているのだろうか? 違う。彼は端的に「この本の裏表紙が緑色だ」と述べればすんだのだ。わざわざ「私は……であることを知っている」なんて形式で言わなくてもよかったのだ。
つまり、彼は緑色の緑色たる所以を、知識として把握していたわけではない。端的に確信していたのだ。同様に、彼が「私は、私の痛みを知っている」と述べる場合も、彼は痛みを知識として把握しているわけではない。ただ確信しているだけなのである。
そして確信は証拠によって是非を判断できない。たとえば、あなたが緑色のものを見ているとき、「実はそれは緑色ではないのだ」ということを、一体どのようにして説得すればいいのだろうか? もはや、それは世界の定義を書き換えることに等しい。定義は議論の前提であり、とりあえず「これこれは、こういうものである」と決定しておかないといけない以上、むやみに定義を掘り返して疑ってかかることに、実益があるようには思えない。


五〇九 私が本当に言いたいのは、言語ゲームというものは、ひとが何かを信頼する場合にのみ可能であるということだ。(私は「何かを信頼することができる」とは言わなかった。)*2


とはいえ、哲学者たちは従来から「絶対に確かだと思われること」を疑い、新しく世界を捉えようとしてきた。冒頭の「私は、地球が100年前からもあったことを知っている」にしたって、本当は世界は5分前に創造されて、すべての物理的状況が何十億年もの歴史があるかのように人々に知覚されているだけなのかもしれない。あなたの記憶も、数十年分のデータとしてつい5分前に生まれただけなのかもしれない。そのように疑ってみることはできるし、やりたければやればいい。
さらに「この緑色は実は緑色ではないのではないか」とか「ここに私の手があるが、実は手はないのではないか」と疑ってみることもできる。錯覚の可能性は常に残されている。その意味で、世界に100%確実なものなどない、と言えるだろう。
だが、「この緑色は実は緑色ではないのではないか」と疑ってみて、仮にやはり緑色でなかったということになったら、どうなるのか。そんな基本的なところで錯覚しているようでは、ほかのありとあらゆるものはすべて妄想の産物と認定せざるを得なくなるだろう。人はそれを狂気と呼ぶだろう。だがしかし、突き詰めて考えてみると、やはりそういうことなのではないだろうか。
とはいえ、哲学者といえどもそんな狂気には陥っていない。彼らの生活はきわめて日常的に進行している。スターバックスの前でいちいち「はて、この看板の色は本当に緑色なのだろうか」と立ち止まって考えたりしない。彼は自らの行動と態度によって、「これが緑色であること」・「これが私の手であること」などの確実性を示しているのだ。彼がそう信じているからといって、「これが緑色であること」をあなたが信じる必要はない。誰かが確信していることを同じように確信する義務などないからだ。しかし、それは当の彼にとって、まさしく確実なことなのだ。
まとめよう。「私」には、これを否定しなくてはいけないのなら世界の全てを否定しなくてはいけないほど、確実な信念がある。それは確実性100%だ。知識として把握しているのでなく、端的に「そういうものだ」と態度で示し続けている、そういったものだ。だから、「私」はそれらの物事について「私は……であると知っている」と言わない。証拠によってその是非が判断されるような形式で、記述しない。誰がなんと言おうと「私」にとって「これはそういうものなのだ」。それは確信であって知識ではない。行動であって推論ではない。「私」というのは、結局のところ、そういう現象なのだ。

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