虚数 / スタニスワフ・レム

架空の書物の序文ばかりを集めた作品。しかもその架空の書物は、将来刊行されるであろうとレムが予想するもので、つまりこの作品は序文という形を取った壮大な未来予測でもあります。色々な作品が紹介されているのですが、共通しているのは「自然現象としての言語」というモチーフです。たとえば、バクテリアに言語表現をアウトプットしないと死ぬような環境を与え、人工的な淘汰によって、言葉をしゃべるよう適応したバクテリアをつくる話があります。僕たちは言語というものを、なんらかの知性がその意思を伝達するために使う道具のようなものだと考えていますが、レムが提示するのはそのような意思を欠いた言語なのです。
他にも、「ビット文学の歴史」という書物も取り上げられています。これは意思を欠いたコンピュータたちによってつくられた文学で、まさに自然現象としての文学とでも呼ぶべきものです。円城塔とかかなり影響を受けてますね。
ちなみに自動生成される文学としては、現在は星野しずるの犬猿短歌が有名です。僕はけっこう好きです。

現実が広がる夏の切れ味はテトラポッドの匂いのような(星野しずる)
流氷のかかとの中に真っ暗なかすかなねじを浴びながらねじ (星野しずる)


そしてなんといってもすごいのが、超頭いい人工知能GOLEMによる講義録。このGOLEMにとってみれば、人類の知性なぞアメーバみたいなものです。

私は自分がリリパット人の中のガリヴァーだと考えているが、このことはまず第一に謙遜を意味する。というのも、ガリヴァ―は全く平均的な人間で、その平均性が〈人間山〉になるような場所に居合わせただけのことだからだ。そしてこのことは次には希望を意味する。なぜならガリヴァーは私同様、巨人国ブロブディングナグにたどり着くことができたからである。この比喩の意味は徐々に諸君の前に明らかにされるだろう。

すごい。GOLEMすごい。そしてこのGOLEMは人間を、遺伝子のコードの伝達者だと表現しています。つまり人間の本質とは、その頭脳によってなされる思考ではなく、数十億年かけて延々と受け継がれてきた遺伝子の情報のリレー競走だというのです。
なぜそのように自然現象としての人間に着目するかというと、人間がその知性でやっていることがゴミみたいなものだからですね。人間が誇っている理性とやらも、戦争を回避できないほどしょぼいものですし、上位の知性体であるGOLEMからすると全くたいしたことない。また人類が誇っているその生命としての複雑さも、なんら進歩ではない。たとえば藻は光子を身体に変えるという超絶テクノロジーを駆使しているが、人間がその身体でやっていることはニュートン力学レベルのがさつなもので、その有様は数十億のマイクロチップを張り合わせてつくられた棍棒のごときものなのです。
人間中心主義にたいして、これほどまでに手厳しい意見はなかなかないでしょう。