自然現象としての言語・自然現象としての物書き――円城塔「Boy’s Surface」がすごい

先の芥川賞でこれを評価するのしないので意見が真っ二つに割れたのは、円城塔「これはペンです」でした。
文壇はいまや円城党と反円城党の二大政党制に移行しているといっても過言ではないでしょう。*1 なぜ円城塔はそこまで受け入れがたいのでしょうか。あるいはなぜ一部で熱烈に支持されているのでしょうか。それは彼が自然現象としての物書きたらんとしているからです。
もともと円城塔は作家になる気なんかさらさらなく、現に生活のために書いてると公言しています。というのも、彼は東大の院で物理学を研究していた研究者だったのです。しかも研究テーマは言語でした。人間という自然現象が言語を扱えている以上、人間以外の構造においても自ずから言語を発するような、そうした初期設定はあるのではないか、ということを探求していたのです。
たぶんこうした視点が、文壇において受け入れがたい原因なのでしょう。いわゆる「文学」においては人間の本質と名付けられるところの、うだうだとした個人的な情緒が尊ばれ、そこにおいて尊厳だとか、生の有様だとかを奏でるのが課題曲となっています。私的な慟哭がベストですが、社会的なバックボーンとか出してもOKです。どちらも人間らしいですから。
しかしそれが無味乾燥な初期条件から紡ぎだされる即物的な結果ということになると、アウトなんですねえ。人間だって自然現象なんですからその程度のものなのに、その程度のものなんかじゃないと声高に宣言しないと「文学」にならないのです。もっと森羅万象にたいして寛容になったらいいのに。
本書の表題作である「Boy’s Surface」においては、円城塔が研究でやりたかったことがぶちこまれており、いわゆる「文学」ではないのですが、それでも心に残る傑作です。主人公は変換です。つまりインプットされたものをなんらかの仕方で変換してアウトプットする構造物です。しかもこの主人公は自らを変換する変換です。つまり変換の仕方自体が次々と遷移しながら、それでも脈々とインプットとアウトプットを繰り返し続ける、変換それ自体なのです。
このように自己言及的に変わり続け、アウトプットをし続けるのは、まさに物書きがやっていることではないでしょうか。過去の作品に影響され、それを自分の中で咀嚼しオリジナリティを生もうとしている姿は、まさに自らを変換していく変換に他なりません。というか、物書きに限らず、言語を使用する存在すべてに当てはまる話でもあります。
これはそのような存在が、無限に変換を繰り返していく先に、解にたどりつけるか、という小説です。「文学」チックに言うなら、とある恋愛が真実にたどりつくかの話です。
これほど美しい作品が芥川賞候補作として挙げられなかったことが悔やまれますね。候補になれば、もしかしたら芥川賞とれたかもしれません。少なくとも村上龍「限りなく透明に近いブルー」よりは面白いことを僕は保証します。

*1:過言