似たようなおじさんには無限に出会えるのに本当の家族には1ミリも出会えない話──グレッグ・イーガン「堅実性」がすごい

久しぶりにグレッグ・イーガンの新作が読めるということで買ってきました。いや、マジでこのためだけにSFマガジン買う価値がある傑作です。

ストーリーとしては、無限の平行世界に何の前触れもなく飛ばされて、周囲の人やモノが似ているんだけど微妙に置き換わる、というものです。全人類が。そう、全人類が平行世界を貫く濁流にシャッフルされて、元居た世界線の家族や友達と二度と出会うことができない、という災害の話なのです。しかも、神がマッチングアプリでスワイプしているのか、同じような生い立ち、容姿、スペックの人にどんどん置き換わって無限にエンカウントできます(本作の状況は無限おじさん編です)。

 

この災害が厄介なのは、同じ過去を共有する人と離れ離れになってしまうということだけでなく、これから先の人生を一緒に過ごすのような人間関係も構築できなくなる、ということです。あまりにも一期一会すぎる。より正確に言うと、固有名詞のある相手との人間関係が構築できずに、一般名詞のような、コモディティ的な人間関係しか作ることができないというホラー。

あまりにも不確実・流動的な状況という点では、小林泰三「酔歩する男」のような怖さもあります。

最後はイーガンらしく、アイデンティティっぽい話になります。決して再会できそうにもない、およそ干渉できそうにもない場所にいる他者に対して、いまここにいる自分が確実にできることはなにか、そのような探求と自制と祈りのようなものを感じさせるラストの一文がとても良いです。イーガン「無限の暗殺者」に近い読後感。

 

不確実で流動的な世界に対して楔を打つような、堅実性(solidity)の構築

人やモノの平行世界への移転は、目を離した隙に起こります。逆に言うと、目を向け続けている限り(対象を観測している限り)、その対象は移転しません。さらに、目視以外の観測や干渉で移転を防ぐことができるのか、主人公は試行錯誤を重ねていきます。この科学実験もサイエンスなフィクションって感じで面白い。

さて、ここからは推測なんですけど、観測の効果って移転を防ぐというよりかは、観測者も被観測者も同じ塊になる、というところにあるんだと思われます。自分ひとりだけ、平行世界を貫く津波に流されるよりかは、同じ流されるにしても、身の回りの人間関係とセットで流されたほうが、その人間関係の系のなかでは過去を共有し続けることができるわけです。

この塊をどんどん大きくしていくことができれば、日常生活でやり取りする範囲内においては、過去を共有し続ける世界を取り戻すことができそうです。

ただ、それは同時に、いまそこの世界にたまたま流れ着いた人同士で固まってしまうわけなので、もと居た世界に戻ることを意味しません。むしろ、流動的であれば概念上はありうる(濁流にのみこまれた被災者がたまたま同じ場所に流れ着くぐらいの確率で概念上はありうる)もと居た世界の親や友達と再会できる可能性を完全にゼロにする試みでもあります。

お前はそれでいいのか。と、言いたくなります。

 

平行世界間を伝播する、もうひとつの堅実性(solidity)の意味

で、ここで効いてくるのが、この中編のなかの堅実性のもうひとつの側面です。堅実性宣言という誰が書いたかわからない紙が出てきて、「多少名前や生年月日が違っても、親っぽい人や近所のおばさんっぽい人、お店の人、取引先の人、それらすべての人に対して、もと居た世界と同じように、親切に接しましょう。そしてこの紙をどんどん広めていきましょう」的なことが書かれてあります。

この堅実性宣言のミームは、平行世界を超えて伝播します。一度紙に残したら、その筆者が次の平行世界に流されようと、また漂着した人がそれを読むことができます。また、流された筆者は、次の平行世界でまた紙に書いて写しを残せばいいです。チラシとして近所に配ることもできます。

全人類が、家族と切り離されて、孤独に彷徨うしかない災害のなかにあっても、北斗の拳的な無秩序に陥ることなく、堅実に生活を送ることができる道筋を示しているのです。

そういう意味で、主人公の親の出身地チュニジアで主流のイスラム教も、その教えの一部である「他人に対する施し」というミームによって、民族や地域の超えて普及したわけであり、堅実性兵器としてとらえることができるかもしれません。

 

干渉すらできない他者に対して、いまここにいる自分ができる堅実性(solidity)

では、決して再会できそうにもない、およそ干渉できそうにもない場所にいる他者に対して、いまここにいる自分が確実にできることはなにか。

それは、平行世界を貫く津波を堰き止めるような、solidな観測者同士の塊を打ち立てることです。そうすることで、その系のなかでは、同じ過去を共有する人間関係を構築していくことができます。

そして、ひとつでもそうした系があるのであれば、その隣の平行世界でも似たようなプロジェクトが進んでいる蓋然性が高いと予想できます。すなわち、堅実性のある塊は、ある程度のグラデーションを伴いつつ、平行世界を超えて伝播します。

そのような平行世界を貫く堅実性の構築にコミットすればするほど、いつかどこかでその堅実性だけは分岐してしまった家族にも届くはずです。

届いたかどうかは決して観測することもできないし、届いていたらいいなと祈ることしかできないですが、それでも、いまここにいる自分がsolidであるべきなのです。

 

もしオマールが幸せになる道を見つけることができたなら、それはあの人々もその道を見つけた可能性があるという証明になるだろう。それが、いまオマールがあの人々のためにできるただひとつのことであり、それだけでじゅうぶんとすべきなのだ。

 

余談。ぶっちゃけ現実世界においても、情緒不安定で、さっき言ってることといまやってることがまったく違いますやん、みたいな状況もあったりしますし、物理的に離れて容易には再会できないみたいな、ことはよくあるわけです。あのときの気持ち・感情・人間関係で同じようにエンカウントできる、ということが二度と再発することなく、取り返しのつかない分岐にそれぞれ流されて、合流は事実上不可能、ということもままあります。そうした不確実で流動的な状況に対して、いつまでも過去の人間関係の再来を願って、あてもなく浮世を彷徨うよりも、地に足を付けて、いまここで自分にできることをやる、というsolidな生き方も大事だよね。うんうん。みたいなことをイーガンは言いたいのかな、とか思いました。「万物理論」でも、他者に対しては理解することもできないし、コントロールもできない(だから他者を理解したい、という夢は捨てるしかない)、というテーマが出てきましたね。わかったよイーガン。堅実性、大事。

 

イーガン読書会でも取り上げられたようです(参加したかった)

e-nekomimi.hatenablog.com

「堅実性」が好きならこの本もオススメ

  • グレッグ・イーガン「貸金庫」(「祈りの海」収録)
    • 「君の名は。」レベル100みたいな短編。朝起きたら見知らぬ部屋にいて、性別も名前も異なる見知らぬ他人に成り変わっているという設定は共通。「君の名は。」では幸いにして、東京のイケメン男子にしてくださぁい! という願いの叶った三葉であったが、これが中年のおっさんの身体だったとしたら途端にホラーだったであろう。
    • この短編の主人公の状況はさらにひどく、朝起きて自分が誰の身体に乗り移るかは完全にランダムになっており、その度に必死に周囲の状況を把握し、うまく話を合わせて乗り切る、ということを繰り返している。
    • 固有の身体を持たない、この精神は、いったい何なのか。「君の名は。」どころの騒ぎではなく、「俺の名は。」という感じである。
    • 固有名詞のある人間関係を構築できないという点では「堅実性」と同じ苦境。
  • グレッグ・イーガン「無限の暗殺者」(「祈りの海」収録)
    • 平行世界への強制転移が台風のような渦として起こる世界。渦の中心部に行くほど、力が強くなり、人単位でなく上半身とか腕単位でも強制転移が起こる。そして渦の中心部には犯人がいるので、その犯人を暗殺するために、無限の平行世界で無限に行動を同期させて渦の中心部に向かうのが本作の主人公。
    • 無限の可能性があるなかで、暗殺に成功して生き残る「わたし」こそが「わたし」なのだ、とアイデンティティを定義していた主人公が、かつてない強敵に遭遇し、失敗することが宿命づけられた流れに囚われてしまったとき、どのように「わたしがわたしであること」を再定義するのか、という結末がとてもドラマティックで好き。
    • 余談ですが、本作の主人公は横方向に無限の可能性のなかを同期して生きていますが、我々も時間軸の縦方向に無限の可能性のなかで同期しています。昨日のわたしの行動が、今日のわたしにつながり、そして明日につながる。今、わたしが前に進むことで、恥辱にまみれずすむ者(明日のわたし)、それこそが、わたしというものだ、と定義しても一向に差し支えないわけです。
  • 小林泰三「酔歩する男」(「玩具修理者」収録)
    •  邪悪な「時をかける少女」みたいな中編。ホラーとしては最恐。死んでしまった好きな人を生き返らせるためにタイムリープをするわけですが、その方法が、時間の流れ(因果律)を感じさせている脳の器官を物理的に破壊する、というもの。そうすると、スナップショットの連続として感じていた「通常の時間の流れ」が、離散的なスナップショットに解けていくので、うまくいけば、過去の場面にも戻れる、という作戦。
    • ただし、この作戦の副作用として、眠った瞬間に、因果律関係なく(ランダムに)次の場面で目覚めてしまうので、過去と未来をふらふら行ったり来たりします。当然、過去を共有することができなくなるので、「なんとなくこの場面だったら、この世界線の過去のわたしはこういうことをやってきているはずだから、今はこれをやる」みたいな、直近の記憶を保持できない認知症みたいな状態で周りからは変な人扱いされます。人間関係の構築もできないので、かなりハードプレイです。
    • こう書くと筒井康隆的なドタバタSFのように感じますが、文体とロジックの強度が物凄いので、いかに今まで安全だと盲信していた日常が、実はグロテスクで不安定なものだったかを思い知らされる体験となります。
  • 東浩紀「クォンタム・ファミリーズ」 
    • ありえたかもしれない可能性を実現させた平行世界に不思議な力で転移したら、なんか思ってたんと違くてドタバタする、という骨格だけみるとオーソドックスな設定。ただし、家族関係、量子力学、尊厳の再分配、ドストエフスキーの地下室の手記、村上春樹の三十五歳問題、といろんな着想が全部乗せでぶっこまれているので、後味が混乱する。
    • でも、ところどころ妙に味わい深いネタもあって、夢を見ているとき、それは現実社会からすると虚構にすぎないけれども、実は平行世界を観測しているのだ、というくだり(虚構と平行世界を同一視するような設定)とか、貫世界通信みたいなところは好き。
    • 書評を書いたけど、今になって読むと意味不明なところも多い。
  • 田中ロミオ「CROSS†CHANNEL」

    CROSSCHANNEL ~For all people~ (通常版) - PS3


    • 頭のおかしい主人公が頭のおかしい部活仲間と一緒に世界の終わりに取り残されて、なんとか仲良くなろうと足掻くものの、お互いがそれぞれ個性豊かに歪過ぎて、固有名詞の人間関係を切断するという話。
    • それだけ聞くと、ひきこもり礼賛という、隠遁生活万歳みたいな、自閉的な話かと思われるが、まったく真逆。むしろ普通の人間関係に憧れつつも、どうしてもそれができない、なんか知らんがいつのまにか他者を傷つけてしまうし、傷ついてしまう、そんな状況で、もはや選択の余地なく追い込まれて人間関係を切断してしまうのです。
    • とはいえ、主人公は人間嫌いだけどひとりはさみしいという面倒くさい性格なので、この孤独に非常に追い詰められます。例えば、一人でできる趣味があるから異常独身男性でも大丈夫、という主張がありますが、その趣味を充実させるために実は他者の存在が欠かせません。希少なものをコレクションする系の趣味ですと、その奥底には誰かに見せびらかしたいという欲望があり、他者が欲望してくれているということ、もっというと、そのような欲望を持つ他者がそもそも存在してくれていることを前提にはじめて成り立ちます。
    • なので、自ら固有名詞のある、個別具体的な人間関係を切断してしまった主人公は、発狂寸前になります。そんな極限状態で、誰が聞いてくれるかもわからないのに、それでも自分以外の誰か(一般名詞の他者)に向かって放送で語りかけます。そしてこの放送が、なんというか、謎に感動的なんです。謎に号泣です。
    • 作中の設定では、この放送は量子力学的な貫世界通信になっていて、届くはずのなかった人に届きます。その辺は「堅実性」っぽさもあります。ただ、どっちかというとメタフィクションっぽく、読者である「あなた」に届くような、そんな余韻が残る作品です。人間嫌いだけどひとりはさみしいという全人類にぶっ刺さります。