光速の半分のスピードで既知の宇宙を削ってくるソラリスの海――イーガン「シルトの梯子」

イーガンの作品はいつもぶっ飛んだ設定の中で、しかしその中でこそリアルな問題として立ち上がってくる「わたしがわたしであるということは、どういうことなのか」というごくごく個人的な悩みが作品のテーマになっており、好きなんですよね。
まず、ぶっとんだ設定から。本作では、6兆分の1秒で崩壊するような不安定な真空を人為的に作る実験をしたところ、その真空が想定外に崩壊せず、光速の半分のスピードで拡大し続け、制御不能となる大厄災から話は始まります。人類の生存圏も、この新しい真空にどんどん飲み込まれてます。当然、人類一丸となってこの問題に対処する、より具体的にはどうやってこの新しい真空を消し去ることができるかに挑戦する話なのかなあ、と思っていたら、「いっそ新しい真空に適応できるように私たちの身体の方を改造すればいいのでは」とか言い出す輩が出てきて、おいおいおい、マジでイーガンって感じでした。その発想はなかったわ

新しい真空は、既知の物理法則では短時間で崩壊するはずの現象なので、新しい真空が安定的であるということは、既知の物理法則が普遍的な法則ではなく、日常的な範囲ではそれで事足りる一種の近似に過ぎないことが判明した、ということでもあります。そうすると、今度は新しい真空ですら説明できるような、真の理論を求める、ということになります。しかし、この新時空、ソラリスの海並みに意味不明で、仮説を立てて実験する、ということを何度繰り返しても、まったくなんの規則性も得られないんですね。え……もしかして既知の科学……オワコン……?


ここからネタバレ。


さて、細かい理論的説明はまったく理解できなかったんですが、あちら側とこちら側をつなぐようなやり方が試行錯誤の上なんとか見つかります。
例えば、3次元のxyz軸上に一つの矢印を描いてみると、そのベクトルは3成分の情報を持っていることになりますが、このベクトルの存在する次元の数を増やすと、どんどん情報の量が増えていき、無限次元までいくと、量子のとある状態を記述できるぐらいの情報を持つことになります。作中の量子力学相対性理論を統合した架空理論によれば、さらには、こちら側の物理法則をまるごとすべて詰め込んだベクトルなんかも作れてしまうらしく、こちら側のベクトルとあちら側のベクトルを重ね合わせることで、物理法則すら異なるあちら側の時空にも干渉できる、ということらしいです。
いや、これだけなら、はあ、そうですか、という話なのかもしれませんが、すごいのは、一度このような干渉のやり方が確立されたら、主人公の意識丸ごとですら、無限次元上の一つのベクトルとして記述できるんじゃね? じゃあ、そのベクトルをあちら側に送ってしまうこともできるんじゃね? ということになっていくことで、時空を突破してしまうことなんですね。
いや、そりゃ、SFなんで時空の扉を開いたり、ワームホールでずばっと光速超えたり、天元突破したり、まあ、ありがちといえばありがちなのかもしれません。それでも、ここまでのディテールを費やして描かれた次元越えは、やはりイーガンでしか成しえないでしょう。

そもそも、主人公は、この世界のテクノロジーのおかげで、すでに何千歳にもなっています。それほどの長い年月を通して、なお、自分が自分でいられるのか、不安にも駆られています。しかも、自分の意識を電子的な情報としてアップロードしたり、レーザーとしてほかの惑星に射出したり、時には肉体が死んでしまってバックアップから再生したりしているので、「この身体に宿る意識こそがわたしなのだ」というアイデンティティの確認は、もはや使えません。

テクノロジーの恩恵のおかげで得た自由により、物質的な制約を超えることができるようになった一つのベクトルが、そして既知の宇宙を超え、そこで予想もしなかったような生態系に出会い、世界観を揺さぶられる。ついでに、一度は同じ星に生まれたが、異なる来歴を持つほかの幼馴染的ベクトルとも交差して精神的に動揺する。
とてつもなく色々なことがあったし、本当に遠いところまで来た。
そうしたもとで、わたしがわたしであるということは、どういうことか。
万感の思いで読みました。

余談

  • イーガン作品の弱点として、登場人物が理性的すぎる、都合よく頭良すぎる、というのがあるんですが、「現代的」=偏見にまみれ、自分の正義のためなら戦争やテロも辞さないキャラもきっちり出てきたのでよかったです。舞台が2万年後の遠未来なのに、これはうまい。まあ、お前ら文明人がちゃんとマーガレット・ミード(部外者の文化人類学者気取りにほら話を吹き込むこと)せずに啓蒙していればこんなことにはならなかったんじゃね?ああん?的な自業自得感はありましたが。
  • 自分の見たいことしか見ない人を説得することは根本的に難しい、ということなのかもしれません。科学も理性もホモ・サピエンスの脳のバグの前には無力なんですかねえ。
  • キャスが本物の海で泳ぎたい、と言っていたシーン、よかったです。そりゃ、ソラリスの海にはうんざりだし、データの海では味気ないよね。
  • 個人的に、レム「ソラリスの海」は「なるほど、わからん」という感じでしたが、「シルトの梯子」は「あー、そういうことね、完全に理解した(←わかっていない)」という読後感です。

参照

物理学者による解説。たしかにライフゲーム的、というかイーガン「順列都市」的な感じもありますね。「順列都市」もめっちゃ面白いのでオススメです。