性のない国、性のない結婚――「宝石の国」・「逃げるは恥だが役に立つ」

性別が無くなったら、そのとき人と人との関係性はどのようになっているのだろう……。そのような思考実験として、「宝石の国」を読んでみる。登場するキャラは、人間のようで、でも基本は鉱物なので、性別がない。しかも触れたら割れるのでスキンシップも危険なものとして避けられてる。
つまり、恋愛する必要もないし、頭ぽんぽんされたらなんか好きになったとかいう身体的反応経由の好意も生じえない。じゃあ、残るのは友情なのか、というと、なんかそうとも言い切れない。主人公フォスフォフィライトのシンシャに対する純粋な「かまってあげたい」感と、シンシャのそれに対するツンデレ的な対応は、友情というにはちょっと違うような気がする。
しいて言うと、性の衝動と切り離された純粋な結晶のような好意、みたいなもので、独特のテンポのコマ回しと相まって、ある種、このマンガでしか味わえないような何かがそこにある。普段マンガを読み返すことはしないのだが、何回も読み返したくなる面白さだった。

で、今さらながら、逃げ恥を読んでいたのだけれども、これは結婚という、(1)生活共同体のための契約、(2)恋愛関係、(3)セックスが、不可分一体となった制度から、(2)と(3)を抜かしてアンバンドリングしてあげれば役に立つ場合もあるんじゃね? という発想からきている。
ラーメンで例えるならば、味玉だけトッピングしたいのに、もやしとチャーシューもセットになった全部乗せしか食券ない状態から、味玉ラーメン専用の食券をつくってあげるというイノベーションだろうか。過剰な盛り合わせは、ときに害悪足りうる。具体的には、単なる共同生活を営む場合と比べて、結婚という制度を利用することで、扶養控除などで金銭的なメリットが得られる。
まあ、結局、現代の日本を舞台にしているので、結婚と性の切り離しは、うまくいかないよねー、という感じになって、(2)も(3)もやっぱりあった方が幸せ! というスタンダードな結婚観に落ち着くのだが、途中はわりとセンス・オブ・ジェンダーな展開があってハラハラさせられた。
例えば、(1)生活のパートナーと(2)恋愛のパートナーは、必ずしも同一である必要はあるのか、とか、(1)生活のパートナーは複数いてもよいのではないか、(3)についてはもう性欲が処理できればそれでいいのでもう生身の相手でなくてもいいのではないか、といった問題提起がなされている。まあ、基本的には「めぞん一刻」みたいな良質なラブコメなんだけれども、ぶっこんでくるときはけっこうぶっこんでくるなあ、という感じであった(褒めてる)。