死を肯定できるかもしれない・「あなたのための物語」再考

「あなたのための物語」は2009年はこれを超える作品は出ないんじゃないかと絶賛されている(主に僕によって)小説です。興味深い感想があったのでちょっとコメントしてみたい。もちろんネタバレです。

wanna beの最後の行為はいったいなんだったのか、って話ですよ。
ミームって、様々に変異したり、どんどん広がっていったりと、まるで生物のように振る舞うと解釈できるけれど、wanna beの最後の行為は、生殖行為ではなかったのか、などと思うんだ。
wanna beは仮想人格である、つまりどっからみても情報そのものなわけで、彼が何らかの情報を他者の中にアクティブな形で残す、ということは、子孫を残す行為に相当するものじゃないか、などと。
彼が活動する「世界」はサマンサそのものであったわけで、であるから、間もなく死んでしまうことがわかっているサマンサを媒体にして子孫を残した、と。
「あなたのための物語」/愛は子孫を残す - 万来堂日記3rd(仮)

ミームとしての生殖(生存)なら著作活動で十分満たされている気もしますね。たしかに神経を直通させたほうがより大きくミームを伝達できるでしょうけど、まあその相手が瀕死の人間なのでミーム的にはうまみがないような。
やはりあの自殺の意義は、wanna beが「このバージョンの人格の死」を覚悟できたことにある気がします。サマンサ(そして肉体の死を恐れる人類)にたいして、その情報パターン(精神)を保存しておけば、「そのバージョンの人格の死」なんて些細な問題だと、身体を張って証明したのですよ。「このバージョンの人格の生存」にこだわり続けている人間に、その生を犠牲にしてでも成し遂げねばならないことだってあるんじゃないか? というかその生はそんなにしてまで維持したいものなのか? とwanna beは問いかけます。
そうした自己犠牲の尊さを語る作品は古今東西さまざまなものがありました。まあ、戦争ものとかほとんどこのパターンです。しかし、この作品の画期的なところは「自己犠牲=自己消滅+他者救済」とはならない点にあります。「このバージョンの人格の死」は人格の全的な死を意味せず、人格ver.1は死んでも人格ver.2は残るからです。「自己犠牲=前のバージョンの自己の消滅+他者救済」であり、そうした自己犠牲が次のバージョンの自己の救済につながることすらありえます。
wanna beは自己犠牲により「サマンサに強い影響を与えた世界に生きうる」自分を残しました。実際に再起動される確率は少ないですが、とにかく自己犠牲により、変化した世界を生きる自分を残したのです。つまり自己というものがオンラインゲームのアバターのごとく、現バージョンの姿に固執したりはしないものになりうるのです。人生が、気に入らなかったら消して、また違うポイントからやり直せる「ぼうけんのしょ」になってしまう。桜坂洋「ALL YOU NEED IS KILL」の主人公が「このバージョンの人格に死」について鈍感なように、またグレッグ・イーガン「宇宙消失」の主人公が気に入らないバージョンの自分を波動関数の収縮によって量子力学的に虐殺したように、なにかとんでもなくフリーダムな生のあり方が提示されたのだと思うのですよ。