ディアスポラ / グレッグ・イーガン

文学というメタゲームへの最終兵器にして史上最も難解なSF。あるいは「火の鳥 ハードSF篇」。グレッグ・イーガンは多分この作品で文学を終わらそうとしている。「批評の終着点はどこか」では批評のメタ構造ゆえに、究極の文学・究極の批評などありえないことを論じました。しかしもし、究極の文学がありえるとしたら、それは批評のメタ構造そのものを捉え批評するような、批評というゲームをクソゲーだと気づかせてしまうようなそんな作品になるはずです。それが「ディアスポラ」です。
ストーリーはクラーク「幼年期の終わり」や小松左京「果てしきなき流れの果に」のテーマである「人間の存在は宇宙でどのような意味を持つのか」という王道を突っ走るもの。しかも既存のどんなSFよりも深く難解に。エンタメとしては限りなく終わっていますが、SFとしてはひとつの到達点を見たと評価します。舞台は30世紀で人類のほとんどは肉体を捨て、人格や記憶をソフトウェア化して、ポリスと呼ばれるコンピュータ内の仮想現実都市で暮らしています。ここからはネタバレ。さわりだけ知りたい人は第二部の部分まで読んで、ダメそうだったら初心者向けの「祈りの海」から入るのがオススメです。

第一部

人工知性ヤチマが生まれる過程やヤチマが自我を確立するまでを描くことで意識の問題を考察しています。一番かったるかったです。でもやってることはかなり凄い。「SFに登場するロボットやアンドロイドって当たり前のように知性を持っているけど、そもそもその知性はどっから生まれてくるんだよ」という疑問への答えがあります。しかし納得できたかというとそうでもありません。というかまず理解が追いつかなかったので、専門用語と造語の数々になんとなく言いくるめられた感があります。

第二部

ガンマ線バーストが地球に降り注ぎ、人類(肉体人)が滅亡するというストーリー。ふつうこういった話なら、いかに危機を生き延びるかという人間たちの熱い物語になるんですが全然違います。まず危険を察知するのが肉体人ではなくポリス市民なんですよ。しかもポリス市民にとってはガンマ線バーストなんて屁でもありませんし、肉体人とポリスは相互不干渉でなければならないという条約のため、肉体人は自分たちが滅亡寸前であることに気づきません。そこでお人好しのポリス市民がロボットの身体を借りて地上に降りて、人間たちにポリスへ避難するように説得します。しかし、意外にも猛反発を喰らいます。
肉体人にとっては、自分たちの身体で物を考えることこそがアイデンティティなのです。その人格や精神をコピーしてポリスという仮想現実に移し変えても、肉体的には死んでいるじゃないか。そんなの御免だ。おれはコピーとして生きるくらいなら、人間として死ぬ。とまあ、こんあ具合に反論されるわけです。
コピーとして生きることは人間の尊厳よりも大事なのか? そもそも意識をコピーすることは本当に「生きる」ことなのか? もしそれが「生きる」ことでないとしたら、コピーは精神の亡霊ではないか? そんな未練を残すくらいならいっそのこと死んだほうが潔いのではないか? こうした肉体人の愚直な思いには共感できました。しかし、そんなこと言っても放っておいたら死んでしまうわけですし、ポリス市民たちの意見にも分があります。この肉体人とポリス市民の思想的衝突が面白かったです。

第三部

理論物理学宇宙論の高度な掛け合い。はっきり言って理解できませんでした。しかし超ひも理論M理論へと深化した経緯を読んだときのような知的な感動がありました。

第四部

内的宇宙の探索に精を注いでいたポリスが、外的宇宙に目を向けるようになります。そして究極の宇宙探索プロジェクト「ディアスポラ」が起動します。このディアスポラ(離散)には2つの意味があります。まず人類が異星人を求めて地球から離散するということ。もうひとつがひとつの人格が自分のコピーを1000体作り、その離散した1000の意識がそれぞれ別々の方向へ宇宙船で旅立つということ。まさにソフトウェア化した意識だからこそできる展開です。
一応ファースト・コンタクトを果たすんですが、なんと人類が初めて出会う異星人は生身の身体を持つ生き物ではなく、仮想現実上の存在だったのです。オルフェウスイカと呼ばれるこの生き物は惑星を覆う生体コンピュータが演算しているプログラムでした。このイカは仮想現実上の環境を自在に動き、何かを考えることもできます。しかも自分が考えているということも考えることができるのです。もはやこれはポリス市民と同じように自我や意識を持った存在です。
このオルフェウスイカは興味深い存在です。こんな仮想現実上のデータに意味はない・こんなのは生物と呼べない、という反発はもっともですが、それを言うならポリス市民たちも同様の理由で人類とは呼べません。さらに言えば私たち肉体人だって同じような存在かもしれないのです。私たちだって仮想現実上でシミュレートされる存在――オルフェウスのヒト――かもしれません。

第五部

全ての原子が通常のそれとは異なる惑星を発見し、その謎を解き明かすというストーリー。第二部の伏線を回収しています。この辺りはなかなかわかりやすかったです。というか超知性体の残したメッセージを解読するというSFではおなじみの展開だったので、ディティールは相変わらずよくわかんないけど大意はつかめるって感じです。

第六部

私たちの宇宙は空間(3次元)+時間(1次元)の4次元時空ですが、そこから脱出して別の時空に行くという話。時空移動だけならその辺のネコ型ロボットだってやってますが、本書の凄いところは脱出する先が空間(5次元)+時間(1次元)の6次元時空というところ。想像を絶する世界です。比喩的な意味じゃなく、文字通りの意味で想像不可能です。数学者ならイメージ化できるんでしょうか。私がとりあえずイメージできたのは主人公たちが四本足になってなんだか不恰好になるってぐらいです。なんて貧弱な……。

第七部

火の鳥みたいな絶対的な存在がでてきて、世界の真理を教えてくれるシーン。相変わらず理解が追いつきません。世界の広大さと矮小さという互いに矛盾する概念を統合する壮大なビジョンが提示されます。センス・オブ・ワンダーという名のSFだけが与えてくれる感動―――今までたくさんのSFを読んできましたが、ここまで圧倒的なものには初めて出会いました。SFを完成させてしまったというと言いすぎなんですが、今後この感動を上回る作品が出てくるとは思えないってぐらい興奮しました。

第八部

永遠に生きることになるポリス市民はどうやって自己の生を規定するのか・アイデンティティはどうなるのかという問いへの答えがあります。しかも「順列都市」とは違ったアプローチです。

ヤチマがありとあらゆる自分の姿を演じきり、完結にいたるためには、意識の不変量を発見することが不可欠だった。自分の精神のパラメータのうち、孤児の精神胚から、取り残された探査者にいたるまでの、すべての過程を通じて変化しないままでいたものを。
ヤチマは宝石がちりばめられたトンネルを見まわし、壁から発信される公理や定義のゲシュタルト・タグを感じ取った。故郷の宇宙で送った人生のほかのあらゆる部分は、とてつもないスケールの旅の中に拡散して意味を失っていたけれど、時間を超越したこの世界は、いまも完璧に意味のあるものだった。つまるところ、すべては数学なのだ。


「批評の終着点はどこか」でも語ったように、文学の価値には絶対的な基準がありません。「人間は万物の尺度である」としたのはプロタゴラスですが、文学の尺度もまた個人の主観なのです。価値基準の数だけ作品評価があります。
さて、この相対主義的な考え方を究極的に押し進めたのがヤチマたちポリス市民です。彼らソフトウェア化した意識にも、文学や芸術や宗教がありますが、そのあり方は私たちとは比べ物にならないほど先鋭的です。彼らは自分の精神のパラメータを自由に調節することができるので、何かに価値を感じる価値基準そのものを変えることができるのです。彼らのあいだで出回っている《価値ソフト》について引用しましょう。

価値ソフトのそれぞれは、わずかに異なるひとそろいの価値観や美学を提供する。このソフトには、いまの多くの市民の精神に幾分か残っている、先祖伝来の“しあわせの理由”をもとに作られたものが少なくない。規則性と周期性―― 一日や季節のめぐりのようなリズム。音響や映像、思想の調和や精密さ。斬新さ。追憶と期待。うわさ話、親交、共感、思いやり。孤独と沈黙。そこにはささいな美学的嗜好から、他人との感情的関係、倫理観やアイデンティティの基礎にいたるまで広がる、連続体があった。

要するに《価値ソフト》とは、超強力な思想書自己啓発本です。しかし、人は一体どんな価値をインストールすべきなんでしょうか。この問題は奥が深いですよ。具体例として、ある《価値ソフト》についての会話を紹介します。

「“死”の評価が十倍上昇する? 勘弁してください」
「それは、最初の評価が低すぎただけのことだ」*1


さて死の評価が低すぎるかどうかをどう判断すればいいのでしょう? その判断の価値基準は何に拠ればいいんでしょう? 死をどう評価するべきかについて考える《価値ソフト》をインストールしてもいいんですが、ではその《価値ソフト》をインストールすべきか否かはどう判断すればいいんでしょう? このように、

(1)ある価値基準について判断しようとすると、
(2)その判断をくだす価値基準、
(3)その価値基準について判断する価値基準、
(4)その(3)の価値基準について判断する価値基準


……というように、どこまでも続く価値基準の階層ができてしまいます。絶対の価値基準というものは無いのです。このメタな構造は文学がかかえる構造と全く同じです。
では、意識の不変量とはどこにあるのでしょうか。ありとあらゆる価値基準が移ろいゆく空虚なものならば、変わらない確かなものなどこの世にあるのでしょうか。ヤチマは答えます。つまるところ、すべては数学なのだ、と。数学という宇宙の本質の記述こそが最も価値がある、と判断したのです。
そりゃ数学よりも価値のある何かを見い出す《価値ソフト》はあるでしょう。たとえば宇宙の終わりまで永遠に快楽と幸福が続くソフトなんてのもあるでしょう。だけどヤチマは数学を選んだのです。数兆の宇宙を旅し、ありとあらゆる価値基準に出会い、外的宇宙と内的宇宙の探索を究めたあのヤチマが数学を選んだのです。そこには数学こそが最も普遍的な価値である、という深意があります。
そしてこれは文学への挑戦でもあります。しょせん文学もひとつの《価値ソフト》にすぎません。思想も美学も文学も、価値基準のメタ構造内部のひとつの階層なのです。ある様式を他の様式に比べて「価値がある」と見積もるソフトウェアなのです。その《価値ソフト》を憶千万と積み上げようと、確固たるなにかには絶対に手が届きません。そのソフトウェア自体がどんなルールで動くのか・そしてそのルールを規定するルールとは何なのか・この宇宙の全てのルールを統括する究極的なルールとは何なのか、そうした探求を通して初めて不変の何かを手に入れることができます。ヤチマにとってその探求こそ数学なのです。


*1:「武士道は死狂ひなり」という一節が山本常朝「葉隠」にはあります。死を美化する価値基準は日本人にとっては馴染み深いですね。イノシロウの名前の由来ってやっぱり日本語からきてるんだろうか。