政治神学 / カール・シュミット

2001年9月11日、無辜のアメリカ国民の一部を殺さなければならないと決定した者たちがいた。
中東における政治の不安定さを、一部のムスリムは「世俗的な為政者ゆえに腐敗は起こる。よってイスラム教の原点に立ち返り、清廉な政治を行わなければならない」と解釈している。これ自体はさして珍しい考え方ではない。アメリカ独立のときもピューリタンたちの清らかであろうとする宗教的情熱が、反政府運動を思想的に支えていた。
しかし現代のムスリムにはこうも考える人々もいる。「世俗的な為政者が現れてくるのは、それを支える第三国があるからだ。地政学的な理由により周辺国を自分たちに隷属させようと、彼ら第三国は傀儡に軍事的・金銭的援助を惜しまない。本当の敵はその第三国にこそにある。」 そしてムスリムの一部にとって敵とされたのは、アメリカだった。
彼らにとってアメリカに鉄槌を下すことが、アラブ世界の秩序のために、どうしても必要だった。だからたとえ無辜の民といえども犠牲にしなければならなかった。そんなことが許されるとはどの法にも書いていなかったが、彼らは既存の秩序を停止させ、決定を下したのであった。
しかし人々は彼らを主権者と呼ばない。テロリストと呼ぶのみである。なぜだろうか。彼らは例外状況において決定を下したのではなかったのか。
おそらく、主権者は「例外状況において決定を下す」意思をしたものではない。そうした決定を人々において同意されたものなのである。その同意がなければクーデターも革命も、単なるテロにすぎなくなる。ゆえに主権者は常に事後的に追認される存在なのである。


 一九九八年八月七日。米軍のサウジ進駐発表から丁度八年目のその日、ケニアタンザニアの米国大使館が何者かに爆破され、二三四人が死亡、五〇〇〇人以上 が負傷する事件が起きた。当初からウサマの名前がメディアや米国政府関係者の間で囁かれ、複数の容疑者が逮捕されると、ウサマの関与を仄めかす証言があっ たとされた。
 クリントン大統領はアルカーイダに対する報復を宣言。一九九八年八月二〇日午前一〇時三〇分、ペルシア湾に展開した米艦隊から、トマホーク巡航ミサイル八 十基がスーダンアフガニスタンに向けて発射され、三基がスーダンの薬品工場を破壊、残りがアルカーイダの基地とされる軍事キャンプを破壊した。九・一一 の影で忘れ去られているこの米国による大規模報復攻撃は、歴史を大きく変えていくことになる。(中略)そして、この米国によるアラブ世界に対する直接攻撃はウサマ・ビン・ラーディンの地位を限りなく押し上げた。
 「ビンラディン自身にとってこのミサイル攻撃は、中東で権力を握る偽善的支配者たちよりも先に米国を攻撃目標にするという決断の正しさを確認するものになった。世界中のイスラム主義活動家たちに対しては、ビンラディンが、かれらがそれまで考えていたような、サウジアラビアやエジプトあるいはヨルダンの治安当局との厳しい戦いから逃れて、遠いアフガニスタンに安住する、口先が達者で自己顕示隙の金持ちの息子ではないことを示したのだった。イスラム世界の活動家志願者たちにとって、その多くがそれまで知らなかったビンラディンは、かれらの熱望の焦点になった。このカルト的な転換は、ビンラディンとの連帯によってもたらされる象徴的存在感や物質的恩恵を各地のグループに信じさせることになった。 (中略)
 アメリカは傲慢で搾取的で、仮に直接の責任がないとしても、全世界の貧しいムスリムには関心を持たない国家だと広くみられていた。パキスタン、エジプトそしていたるところで、怒った若者たちの大規模なデモがミサイル攻撃に抗議した。」(注4)
 かくして、ビン・ラーディンはカリスマとなり、アルカーイダに対する資金援助が殺到、反米活動志願者が次々と彼の元に集まり、軍事拠点の提供者が続々現れて、またたく間に巨大ネットワークが形成されていった。
 「無限の範囲作戦」と名付けられた一九九八年八月二〇日午前一〇時三〇分のミサイル攻撃が巨大テロネットワーク「アルカーイダ」を生み出し、テロの戦場を世界全体という「無限の範囲」へと拡大することになったのである(注5)。  


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