平岡公彦氏・finalvent氏・とつげき東北氏のニーチェ解釈――永井均「これがニーチェだ」がすごい

平岡公彦氏に紹介された永井均「これがニーチェだ」をようやく読みました。僕の感覚からすると非常にわかりやすかったです。紹介していただいてどうもありがとうございます。僕がどうしても理解できなかったのは「どうしてニーチェは健全だとか健康だとかにこだわっているんだろう?」ということでした。だから「健全さ」すらも相対化してありとあらゆる価値基準にとらわれることなく好き勝手に生きればいいという主旨のことを述べました。しかし、むしろニーチェの思想は「何が健全か」よりも「何が醜悪か」で考えた方がわかりやすいように思います。というわけで、永井均の解釈に沿って「何が醜悪か」について整理します。


1.第一の醜悪なもの――弱いもの・劣悪なもの

 「優れた能力」というものについて考えてみましょう。
 たとえば、「速く走れること」は、「速く走れないこと」よりも明らかに「よいこと」です。こうした価値観に対して、速く走ることができない人は、「速く走ったって、疲れるだけだし、めんどうだ。だから速く走らないほうがいい」と反論して「速く走ることの利点」を否定することはできるかもしれません。しかし、この反論は、「速く走る能力の価値」の否定に成功しているでしょうか?
 たとえ速く走ることに不利な点があったとしても、なんらかの危険に遭遇したときなど、速く走らなければならない状況が存在する以上、「必要なときに速く走る能力をもっていること」自体の価値は否定されません。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/hiraokakimihiko/view/20100509/1273409115

一般的に、「速く走る能力」が無いことは、単純に「弱い」ことであり「劣悪」なことです。なるべく価値判断をはさまないで事実をありのままに見ようとしたとき、一方にできることが他方にはできないと、そのできない方を「劣悪」だと表現するのは、ごく当たり前のことでしょう。そして「劣悪」なものにはできないことを平然とやってのける方を「優良」だとか「健全」であると呼ぶことも差し支えないはずです。さて、こうして現れた健全さと醜悪さのベクトルを転倒させて、価値観のちゃぶ台返しをしようと企んだ勢力がいました。キリスト教徒です。


2.第二の醜悪なもの――「弱いもの・劣悪なもの」を「善い」と言い換える者

キリスト教徒は「弱い」「劣悪な」人たちでした。しかし、彼らはその「弱さ」「劣悪さ」を素直に認めて、「強さ」「優良さ」を獲得しようと世俗的に努力することはしませんでした。そのかわり彼らは「むしろ弱いものこそが天国において救済される」とか「劣悪さを知っている人のほうが心が豊かだ。金持ちは心が貧しい」といったように、従来の健全さのベクトルとは違うベクトルをもってきて、自分たちの優位を主張しました。この新しいベクトルこそが道徳です。
弱者は強者にたいして反感を持ちますがが、それでも現実において弱者が強者に勝つことはありません(そもそも勝てないから「弱い」のです)。そこで弱者は自分が弱者であることを認められず、この現実は「本当の世界」じゃない、こんなの「本当の自分」じゃない、と考えます。どこかに「本当の世界」があり、その別のところ(彼岸)では「本当の自分」が偽りの強者に勝つことができると夢想するのです。現実において勝てない弱者は、「本当の世界」において強者に逆転勝利できます。では「本当の世界」において勝ち負けはなんで決まるのでしょうか。権力・暴力・支配といった価値基準は使えません。なぜならそういった基準では弱者は強者に勝てないからです。そこで弱者は自分にとって都合のいい価値観=道徳をでっち上げるのです。
パウロは「神はこの世の軽んじられるものを選ぶ」と言いました。この言葉はニーチェにとってみれば倒錯的な負け犬の信仰にすぎません。ただひたすら弱者にとって都合のいいだけの妄想にすぎません。「弱いもの・劣悪なもの」を「善い」と言い換える者たちの醜悪さを攻撃し、ただ単に「強く」あろうとする者、それこそがニーチェにとっては「健全」な生なのです。
しかし、そもそもなぜ「道徳の系譜」を暴き、「善い」人々を罵倒しなくてはいけないのでしょうか? たしかにそれが醜悪であることは理解することができますが、なぜその醜悪さについて騒ぎ立てる必要があるのでしょうか? ニーチェに言わせれば「キリスト教の耐えがたい悪臭に、一言くせぇんだよボケ! とツッコミを入れたかった」ということなんでしょう。
しかし傍から見れば、当時マイノリティだった思想家が自らの思想の中において他の支配的な思想(ヘーゲルマルクスキリスト教)に勝利しようとした結果だったと見ることもできます。キリスト教徒は強者へのルサンチマンから道徳を捏造しましたが、その妄想がもはや《真理》へと偽装されている中でその《真理》を解体しようとするとき、ニーチェは「道徳という「強い」ものに対して反感を持つ弱者」になってしまっているのではないでしょうか。また「権力への意志」という思想も、すでに力を持っている人はわざわざ力を意志して獲得する必要がないので、力が無い者の思想ということもできます。あれ、ニーチェさん実は「弱い」んじゃ……。


3.第三の醜悪なもの――勝手に自分基準で理想をつくり、その理想と現実のギャップを醜悪だとわめきたてる者

「弱いもの・劣悪なもの」を「善い」と言い換える者の悪臭をニーチェは激しく強調したので、多くの読者にとって醜悪といえばこのキリスト教徒ということになります。彼らの道徳は「ある種の生のあり方が必要に迫られて作りだしたパースペクティヴ的虚構」にすぎないのです。しかし、道徳が「パースペクティヴ的虚構」だったことを暴きたてるニーチェの「探求それ自体が、ある種の生のあり方が必要に迫られて作りだしたパースペクティヴ的虚構である」としたら、ニーチェキリスト教批判もまたダサい活動となります。*1 さらに言えば、今僕がやっているこのニーチェ解釈も「ある種の生のあり方が必要に迫られて作りだしたパースペクティヴ的虚構」であり、ダサいと言うことも可能です。
ここの話は感覚的には理解できないと思うので、かなりざっくりまとめると次のような感じになります。

相手を「必死だなw」と軽蔑するとき、そう宣言すること自体が「相手を見下し自分の優位さをアピールせざるを得ない余裕のなさっぷり」を露呈させてしまい、まさに「必死だなw」状態となってしまう。ではこの「必死だなw」を回避する方法は有るのだろうか。というか、なんかこうやって一生懸命批判をかわそうと策を練ること自体すでに必死になってしまっているのではないだろうか。おいマジでこのループから抜け出せなくなるんじゃねーか。どうすんだよ。

さて、このまま進むとずぶずぶの相対主義に陥ってしまいます。ところが、ニーチェはこの醜悪さを追求しようとするスタンス・「必至だなw」を回避しようとしてループする構造自体を、醜悪であると宣言します。そしてその反対の「健全」な生のあり方として、端的に世界を肯定し、気の向くままに世界と戯れるというスタンスを提示します。

どんな愚劣な世界であっても、それが自分の生であり、ただ一つの生の開花に対峙させてルサンチマンを克服しなさい、ということ。
あなたの人生をして、生きてよかった、生きることはこういうことであるかと言わせる圧倒的な力、ただその一瞬の光のなかで生の力を見つけなさい、ということ。

最近はやりのニーチェかな - finalventの日記

finalvent氏がこう書いても、「生をただそのまま肯定するとかなんだそれ。どんなひどい状況でも肯定するって頭おかしい」ってなる人もけっこういるでしょう。ただ相対主義もこのあたりまで突き詰めていくと「頭がおかしい」という解釈の特権性も否定されてしまい、誰が「善い」と言おうが「悪い」と言おうが「健全」と言おうが「醜悪」と言おうがもはやどうでもいい、という境地に達しています。どこかに足場を作ってその上で「○○は醜悪だ。××こそ健全だ」と宣言することはできますが、その足場を選び取らなければいけない必要性・必然性など存在しません。そしてこの足場がどこにも無いという感覚=世界の無意味さをただそのまま事実として認識しながら、なおその上で、子どもが日々を気の向くままに消費するように、人生をただ戯れる、それがこの地点における「健全」な生ということになります。
(ただ永井均も述べているように、これが安易なお花畑的現実肯定とどこが違うのかよくわからなくもあります。そのあたりfinalvent氏がどう考えているのか気になります。)


 こうして、現代思想言語ゲームに転化した。思想には一片の<深刻さ>もなかった。20世紀後半に、哲学はテツガクになり、文学はブンガクになり、芸術はゲイジツになった。これが、相対主義の運動の核心そのものなのだ。相対主義に<目的地>はない。なぜなら目的地とは、一つの<理想>だからだ。差異と反復に基づくゲーム、ゲームに乗りながらゲームから降りる感覚、すなわち<遊び>の感覚こそが、相対主義そのものなのである。そこに<幸福>を求めることができるとすれば、それは「知の幸福」ではない。もっとマゾヒスティックな、あるいはパフォーマティブな幸福である。それはちょうど積み木を綺麗に積み上げて自己満足に浸るような、しかし積み木自体は何の役にも立たないという確信をもってその積み木を見るような感覚である。役にもたたない積み木の良し悪しを気にする程度に権力的な立場であることが、相対主義には不可欠である。
 この感覚を持つとき、我々は初めて相対主義者となる。そしてその時にこそ、我々は幸福であろう。
とつげき東北「勘違いしたブスにむかつかなくなるまで――相対主義の感覚」

この文章はニーチェについて直接述べたものではないが、この地点における「健全」な生がいかにして遊んでいるかを示す例であります。たぶん。ただ、遊びにしては少々縛りがきついというか、もっと愚昧で気楽に戯れるほうが個人的には好きです。ええ、理想主義への後退とか平気でやってしまうくらいに。


4.第二の醜悪なものを擁護する

僧侶は単なる卑小な弱者ではない。が、もちろん高貴な強者でもない。僧侶の力は弱さから生まれる特殊な強さ、つまり世界を別様に解釈するという仕方でのみ有効な特殊な力である。これは本当の力ではなく、金の比喩で言えば、いわば贋金である。僧侶とは、本当の金を持たない貧乏人に偽造貨幣を作って与える、贋金作りの専門職人である。*2

キリスト教の僧侶は、道徳によって価値を捏造することに成功しました。それを醜悪であるとマイナスに評価する立場はたしかに存在するでしょうが、重要なのは信者の中ではそれは醜悪でもなんでもない、ということです。贋金を贋金と見破ることのできない人にとっては、贋金といえど本当の金と同じ価値があります。これがリアルの贋金ならそれが出回ることによってインフレが起き、結局贋金の価値も下落してしまうでしょう。しかし、個人の信仰ならばそのような心配はないので、むしろ積極的に贋金つくりまくればいいんじゃないかなと思います。
つまり、「弱いもの・劣悪なもの」の数だけ、それを「善い」とする道徳を作ってやり、一人一人の主観の中から「弱いもの・劣悪なもの」を絶滅させるというアイディアです。もちろん「善い」とされた弱者たちは彼らの道徳の中で強者を見下すので、全道徳圏が互いに見下し合うという大変醜悪なことにはなりますが、大丈夫。それを醜悪だと非難する論者は黙殺すればいいのです。そうした人にはさっさと自分が第三の醜悪なものであると気づいてもらい卒業してもらいましょう。これと同じ地点に工学的に到達してしまおうとするのがグレッグ・イーガン「しあわせの理由」であり、まったく別の角度からアプローチするのがグレッグ・イーガン「万物理論」であります。僕の人生はだいたいイーガンとレイ・カーツワイルを<目的地>にしています。あんまり軽やかじゃないですが満足です。





*1:永井均「これがニーチェだ」125p

*2:永井均「これがニーチェだ」144p