1000の道徳によって分断される人々――グレッグ・イーガン「万物理論」がすごい


個人主義者はよく「みんながバラバラに生きていたら社会が成り立たない」と反論される。同じように自由主義者が「おれっちは勝手にやらせてもらうぜ!」と自己決定ですませようとしても、コミュニタリアンが「ある程度統合された社会がないと人間ダメなんだよ」と批判する。
たぶんリベラルやコミュニタリアンの頭の中にあるイメージは、ズジスワフ・ベクシンスキーのこの絵のような茫漠とした世界なのだ。ベクシンスキーはその作品に一切のタイトルを与えなかったそうだが、もし名づけるとしたらこの絵はまさに「拡散した社会」そのものである。それぞれの村は断絶している。コミュニティを統合するような大きな構造は存在しない。人びとは火の周りで暖を取っているが、他の村とは顔を合わせることはない。

普遍的なもの/普遍的でないもの

さらに解説は続く。まず、火は道徳をあらわしている。それは人々がよりどころとする光であり、コミュニティの中心に存在する正義だ。しかしその火はあくまでもローカルな焚き火でしかなく、普遍的な光ではない。だからこのローカルな道徳をあたかも普遍的な《真理》であるかのごとく言うことはできない。しかし人々は自分の村の火こそが世界の中心であると勘違いしがちで、それだけならまだしも他の村に「おらが村の火こそが本当に価値のある火」だと喧伝してまわる。中には勧誘にほだされてあの深い崖をジャンプしてやって来る人もいるだろう。多くの人は奈落の底へと落ちていってしまうだろうけど。
そんな冒険するくらいなら手元の火で暖を取っていたほうがいいと思うのが個人主義で、多少の犠牲が出てもみんな同じ火の下に集まってわいわいやったほうがいいと思うのが全体主義だ。
だがこう反論する人もいるかもしれない。「たしかに人々は1000の火によって分断されているが、それを照らす曙光があるじゃないか。天から降り注ぐあの光はなんだ。あれこそが普遍的ななにかを示しているじゃないか」と。でもあの光は自然現象であって、火のように人為的なものではない。つまり社会がどうこうできるものではなく、事実としてすでに遍く存在しているものだ。どんな状況でも普遍的にあてはまるルールであり、Theory of Everythingなのだ。
そういうわけで、人々が分断しようが統合しようがなにしようが、それでも普遍的なものとして自然現象は存在している。そしてその自然を理解することは、いかに各個人が離れ離れになっていようとできることだ。ただ火から目をあげて、天の光を見ればいいのだから。

拡散する価値と遍く妥当する「万物理論

前置きが長すぎて恐縮だが、ここからようやく本論に入る。あんまり思想関係の本を読んでないのでよくわからないんだけど、現代は「大きな物語」がなくなった時代だと聞く。それは一つの大きな火の周りでみんなでわいわいやっていたら突然冒頭の絵のような分断に気づいてしまい、どうするんだよこれ……と困っている時代なのだと勝手に解釈している。
大きな物語」を再生することは、ある村の火を普遍的なものにすることであり、不可能に近い。どんだけ焚き木をくんだとしても、全ての人に行き届く大きな火にすることはできない。また他の村の火を消して回って自分たちの火を唯一の火にすることも理論上は可能だが、実際には他の村の人々が邪魔してくるので無理だ。ローカルな火を守ろうとする番人たちをばったばったとなぎ倒しながら、暴力的に火消しに走れば火の統合もできるが、それなんてテロ……である。
やっぱり、火はこれ以上大きくすることはできない。人為的な物語が普遍的なものになるなんて土台無理だったのだ。では、どうすればいいのか。イーガンの答えが、「万物理論」にある。
この小説は、物理学における統一理論をめぐるハードSFであり、なおかつ価値観の多様化によってどんどん分断されていく人類へのささやかな希望をこめた文学だと思う。性別を持とうとしない人、健康を相対化して自閉症の治療を拒む人無政府状態の人工島「ステートレス」に住む人などなど、常識外れの価値観を持つ人がたくさん出てくるが、そうした人々と分かり合おうと対話するシーンはとくに興味深い。物語の前半はかなりかったるいけど、読了したときの感動はとてつもないよ。