意外に思われるかもしれないが、リバタリアンの中には奴隷契約の合法化を主張するものもいる。真に個人の自己決定権を尊重するのならば、「奴隷として生きる自由」ですらも、保障しなくてはいけないのだろう。
彼は、奴隷になることを選ばずに、自給自足の原始的な生活をしてもよかったのだ。そういった状況の中で、あえて、主人からの命令に盲従し、その対価として俸給を得る、そのような奉公を選ぶのである。ならば他人がとやかく言う問題ではない。たとえそれが、あなたの善に反するものであっても、共同体の道徳に背くものであっても、である。
そして、ここに一人の奴隷契約者がいる。現在の奴隷契約者―――社畜―――は、決してその状況に完全に満足しているわけではない。できることならば、もっと自由な環境のもとで生活したかった。しかし、その自由を捨てでも得たいものがあったのだ。飯を食わねば人は死ぬ。生存の価値は、自由を凌駕する。
さて、その社畜といえども、その生産性次第によっては、より自由な職へと移ることができる。生産性が低く、代替が可能なコモディティとしての労働力ならば、その待遇はまさに奴隷のような状況へと低下するだろう。しかし、生産性が高い労働者は、その人的資本を投下させてあげる権利を、企業に高値で販売することができる。そのような人材がいなければ、企業は利益をあげられないからだ。ゆえに、社畜は共産主義革命の夢を見るのではなく、クリエイティブ・クラスへのステップアップを目指すのだ。
マルクスは、労働はかならず人間を疎外すると述べたが、これは生産性の低い労働者は供給が多い割には需要が低く、労働市場の中で安く買いたたかれて、よい待遇を獲得できなかった、というのが事実であろう。生産性の高い労働者は、むしろ労働が自己実現と直結するような、幸福な職場にありつけていることもある。無論、そのような生産性の高い労働者の数は、ごく少数であり、大多数の生産性の低い労働者にフォーカスしたマルクスのアプローチは、あながち間違ってはいない。
疎外とは何か
だが、このようなマルクス解釈には批判もある。そもそもマルクスによれば、疎外とは、労働の対価が安いといった俗っぽい問題ではなく、本来は社会的な存在であった人間が、その人間らしさを不当に奪われ、その本性から乖離してしまった状態のことをさす。つまりは、労働契約なんてものは、本来の人間の社会には存在しなかった異常な関係であり、そういった関係の中に置かれ、資本家の利潤のために尽くす存在へと身を落とすことそれ自体が批判されるべき、というのである。
なるほど、たしかにそのような理解からすれば、いかなる種類の労働であっても、批判されるべきであろう。だが、そこからマルクスが主張したように、労働契約を批判し、契約の基盤たる私有財産制の廃止まで持っていくのは、無理がある。たとえ労働が人間を疎外するものであったとしても、そこから私有財産制を攻撃するのは、まったく論理必然ではない。
むしろ、僕は「労働が人間を疎外するのならば、できるだけ労働する期間を減らす方向で生きていくべき」だと考える。マルクスの生きた時代では平均寿命も短く、労働者は労働者のまま死んだ。しかし、現在の平均寿命の高い時代では、労働者はリタイアした後も余生を残す。そのとき、彼は資本家として生きることになる。
労働者のとき、彼はその人的資本を労働市場に投下し、賃金という形でリターンを得る。そして、その賃金は金融資本の形でストックされ、彼は資本家としてその資本を運用することになる。銀行預金という形でもいいし、株式投資でもいい。公的年金に加入するのも、一種の資産運用である。いずれにせよ、人はリタイアした後、すべからく金融資本を金融市場に投下してリターンを得ることで、生活費を稼ぐことになるのだ。
そう考えると、我々プロレタリアートの使命は革命のために貴重な時間を費やすことではなく、できるだけプロレタリアートの期間を短縮し、疎外を防ぐことにある。いずれはブルジョアになるのならば、アーリー・リタイアメントしてなるべく早くブルジョアになるべきだ。
そしてその手段として、生産性の高い職を目指すことは、マルクス的な文脈においても合理的となる。やはり社畜は共産主義革命の夢など見ている場合ではない。
尊厳とは何か
さて、ここでひとつの疑問が出てくる。たしかにクリエイティブ・クラスを目指すことは、その当該個人にとってはペイする投資である。しかし、万人がクリエイティブ・クラスとなることはできない。なぜなら、他者との差別化を図る能力こそが、クリエイティブ・クラスの条件であり、万人がクリエイティブ・クラスになった世界は、万人がコモディティと化した世界でもあるからだ。
そしてさらに重要な問題として、そのように富の獲得をめざすことによって仮に社畜を卒業できたとしても、今度はその富が個人に尊厳を付与しない、という問題がある。
いまやもっとも重要な問題は、富の再配分ではなく尊厳の再配分なのだ。希望の再配分とも言ってもいい。そこで問題を縁取るもっとも過酷な条件は、世界の富の総量は「クリエイティブ・クラス」の「イノベーション」でいくらでも増やすことができるかもしれないが、世界の尊厳=希望の総量は決して変わりはしないという単純な事実だ。ある個人に尊厳=希望を与えれば、別の個人が必ず尊厳=希望を奪われ地下室に堕ちる。
現在の労働は、生きるための糧の生産ではなく、むしろ尊厳の生産のために行われている。今の日本では農業などの一次産業は、GDPのわずか1%を占めるにすぎず、これはパナソニックの売上とほぼ等しい。だからといってパナソニックの商品がそれほど生存に大事だというわけではない。仮にTVが無くても、電気シェーバーが無くても、僕たちはそこそこの生活はできるだろう。問題は、そのそこそこの生活で、僕たちは決して満足できないということである。
なぜか。それは、そこそこの生活には、尊厳が無いからである。そのような凡庸な生活で満足できるなら、人生は容易い。だからこそ、そのような凡庸さは、僕たちに尊厳を与えてくれないのである。他人が羨むような、充実した人生を送るためには、尊厳が不可欠なのである。
そしてこの意味での尊厳は、絶対的な生活水準に依存してはおらず、むしろ周囲の人間と比べた場合の相対的な生活水準の優位さに依存している。みなが掃き溜めで暮らしているのなら、なにも彼の尊厳は傷つけられないが、周りが出世して彼女もいてリア充なのに自分だけ非リアとか、正直いって、耐えられない。
では、尊厳の再配分をするにはどうすればいいのだろうか。やはり、共産主義革命によって全ての人が平等に生活水準の低い社会になれば、尊厳は傷つけられなくなるのだろうか。僕には、それは解ではないように思われる。
革命とは何か
僕の解は、価値観の多様化である。価値の序列のベクトルが一つだけならば、人々は勝ち組と負け組に二分されてしまうだろう。しかし、価値のベクトルが1000あれば、1000の勝ち組と1000の負け組が存在することになる。高収入な人、モテる人、容姿端麗な人―――彼ら彼女らはたしかに勝ち組であろうが、しかしそういったベクトルだけが全てではない。
たとえば、文学に異常に造詣がある人、音楽の才能のある人、宗教熱心な人、社会に貢献している人―――そういった人々は、一般的な価値観からしたら別に勝ち組でもなんでもないかもしれない。しかし、文学・音楽・信仰・他者承認といったそれぞれのフィールドにおいては、確実に自分の位置を他者より高位におくことができるし、そのベクトルの中ではドヤ顔できるのである。
もし自分が高位に位置づけられるベクトルがなかったら、勝手に設定すればいい。たとえば、割り箸の折り方の美しさの序列、マフラーの巻きこなし方の巧妙さの序列、フライング・スパゲッティ・モンスター教徒としての敬虔さの序列―――そういった、自分がドヤ顔できるフィールドを設定し、そこで勝負すればいい。そしてそのベクトルの中で、自分より劣位にある他者を見下し、ふふんと鼻で笑い、にやにやとドヤ顔すればいい。そんなベクトル自体が下らないと嘲笑することは許されない。なんとなれば、そこに彼の尊厳が込められているのだから。
1000のベクトルの中で、1000の勝ち組がお互いに見下し合う、客観的にはひどく醜い世界―――しかし主観的には尊厳に満ち満ちた世界―――この境地こそが、無力な僕たちにできる唯一の革命なのだろう。