文学は単なる文化圏にすぎない

文学に限らず芸術というものは、科学ではなく文化です。つまり普遍的なものではなく、ある文化圏内でのみ通用する局所的なものです。ある様式や価値観を信仰する人々の集合が文化ですから、この文化に属さない人にとっては理解できなくて当然です。文学は、盆栽の品評会と限りなく似た構造を持っています。
しかしこの文学は文化圏としてはかなり広大で、その圏内にどっぷり浸かってしまった人にしてみれば、これぞ絶対不変の価値だと勘違いしてしまいます。勘違いするだけならいいのですが、その勘違いを敷衍して一般法則を作ろうとしました。これが文学理論です。
いやいやそんなこと無いだろ、だって超偉い学者や頭のいい天才が文学理論を考えたんだろ? だったら素晴らしいものに違いないじゃないか。しかしよく知りもし無いくせに権威にほだされてはいかん。実際に文学理論のなんたるかを詳しく調べてみよう。と考えたある作家が「印象批評」から「ポスト構造主義」までの文学理論を解説したのが、筒井康隆「文学部唯野教授」です。文学大好きの教授が主人公で、大学生相手に文学理論を講義します。
「面白い面白くない」といった最低レベルの「印象批評」から、よりレベルの高い文学理論を一歩一歩学んでいきます。そして「ポスト構造主義」まで行き着くんですが、これは傍目に見ると単なる言葉遊びです。
そしてそこまでくれば文学の文化性に否応なく気づかされます。文化ですからそれは感じるものであり楽しむものなのです。説明したり解読したりするのは、食事中に「この着色料はこれこれこういった虫の体液を材料としています」とのたまうのと同じくらい野暮ってもんです。黙って食え。そう、文学も同じです。黙って読め。
しかし唯野教授は文学が好きすぎるのであれこれ言わないと気がすみません。というか文学でその飯を食っているので黙っているわけにはいきません。既存の文学理論よりも価値ある批評を創造しようとします。それが「虚構の虚構による虚構のための文学理論」です。その内容はついぞ明かされませんでしたが、筒井康隆の諸作品で明かされていくのかもしれません。