とくに買いたいモノはないけど、とりあえず5000兆円欲しい人のための経済学

Twitterで5000兆円欲しい!というネタが流行っていたが、その金で何を買いたいか誰も話しておらず、みんな夢がないなあ、と思った。とはいえ、とりあえずお金が欲しい、将来が不安だからいっぱい欲しい、できれば5000兆円欲しい!という気持ちはよくわかる。というか、実際そうなのかもしれない。すべての家計がとりあえず5000兆円分の日本円を欲しがっているが、とくに買いたいモノ(財・サービス)はない、と仮定すると日本経済をうまく説明できる可能性がある。

1.モノの市場の需要と供給

  • 主流派のマクロ経済学では、買いたいモノがない、という状況は短期的にはありえても、長期的には解消される(はず)、と考える。どういうことだろうか。まず、買いたいモノがないということは、正確にいうと、買いたいほど魅力的なモノが売っていない、ということであり、さらに言うと、魅力的なモノが手頃な値段で売っていない、ということである。モノの売り手としては、お値段そのままで魅力的な新商品を開発するか、価格を下げて買ってもらうようにするしかない。
  • すなわち、モノが売れないという、そのモノの需要に対して供給が過剰になっているという状態(=モノの需要不足の状態)は、長期的には、モノの品質上昇か価格下落によって需要と供給が一致するところまで調整が進み、やがて解消される。

2.資産の市場の需要と供給

  • 一方、買いたいモノがないけど、5000兆円欲しい人は何を考えているのだろうか。この家計は、給料がATMに振り込まれたら、必要最低限のモノを買う分以外は、なるべく消費せず、貯蓄に回そうとする。なにせ5000兆円もの大金が自分の銀行預金口座にあるのを見ないと満足できない人たちだ。不要不急の消費はなるべく避け、できるだけ預金に回さないと安心できないのである。
  • そうすると、モノの市場の需要不足(供給超過)は長期的に解消することが仮に正しいとしても、見通せる将来にわたっては、いつまでたっても需要不足は解消せず、所得は延々と預金に回されることになる。すなわち、モノの市場の需要不足と、資産(日本円、銀行預金、国債、有価証券等)の市場の需要超過(いわゆる「金あまり」)が同時に発生する。

3.貯蓄超過となった企業

  • とはいえ、モノを買うのは家計だけではない。企業もまた、将来時点でより儲けるために、工場を買ったり、オフィスを広げたり、機械化投資を行う。こうした企業の支出(設備投資)によって、モノがばんばん購入されるのであれば、モノの市場での需要不足は起こらないはずだ。とりわけ、企業は銀行や投資家から資金調達して設備投資を行う主体であるはずなので、金あまりで金利も安くなっているのだったら、がんがん設備投資するはずだろう。
  • しかし、企業が設備投資するのは、あくまでも将来「家計がモノを買ってくれる」ことが前提になっている。設備投資は、そのような楽観的な売上見通しを立てられるような時期にのみGOサインが出せる挑戦なのだ。そうすると、現在も「家計がモノを買ってくれる」景気のいい時期に自ずと限定されてしまう。例外的には、家計が今モノを買っていないけど、将来(人口が増えるといった理由で)モノを買うようになる、と予想できる場合は別だが、このケースはあまり存在しない。
  • 実際、資金循環統計をみると、1998年度から、企業は貯蓄超過の主体となってしまった。国際的にみても異常事態である。上場企業に占める実質無借金経営企業の割合も年々増加し、5割を超えている。賃上げによって労働者に分配もせず、増配・自社株買いによって株主に分配もせず、ひたすら現金をため込む、要塞化する企業の出現である。
  • 脇田成「賃上げはなぜ必要か」によれば、1997〜98年の金融危機時に銀行による貸し剥がしを経験したのがトラウマで、「借金を返し貯蓄を積み増して、細く長く行こう、と企業幹部が思っている。この状況で1社だけが思い切って大規模投資をしても報われない。金融危機の後遺症が大きく、羹に懲りて膾を吹く」*1状態だという。しかし、そうした金融危機の後遺症がこれほど長引いている背景としては、「とりあえず5000兆円欲しい家計」の存在と、モノの市場の恒久的な需要不足が挙げられるかもしれない。

4.伝統的な金融政策手段を使い果たした中央銀行

  • ところで、「中銀がマネーを供給すれば需要は増加する」という言説がある。しかし、この説は多くの仮定の上にしか成立しない。まず、中銀ができるのは、民間の銀行に対して与信するか、民間の銀行が持っている国債を買うかだけだ*2。膨らんだり、内容が変わったりするのは、民間の銀行の資産である。つまり、直接は家計の所得が増えるわけではない。
  • また、中銀からの与信が原資になって、銀行の貸出が増える、ということもない。銀行は、その企業に対する貸出と、その企業から銀行に対する預金を同時にバランス・シートに計上できるので、原資がなくても資金需要さえあれば、貸出は伸びる(これがいわゆる「信用創造」のメカニズム)。
  • もし、仮に、金利が十分に高く、企業も資金不足で苦しんでいる状態であれば、中銀による短期金融市場に対する流動性供給増加→短期金利の低下→長期金利の低下→銀行の貸出金利の低下→企業の資金調達コスト低下→設備投資の増加→企業の支出増加→需要増加、という経路がありうる。しかし、すでに十分に金利が低下しているのでこの経路は機能していない。企業幹部は「将来の売上が不透明なのに、貸出金利がちょっと下がったからといって設備投資しませんよ」という心境だ。
  • さらにテクニカルな話として、「中銀が大量のマネーを供給すれば予想インフレ率が上がるので、実質金利(=名目金利−予想インフレ率)も低下し、設備投資が増える」という言説も過去にはあった。実際には、中銀に予想インフレ率を引き下げる能力はあっても、引き上げる能力はなさそうだ。2013年の後半頃、「予想インフレ率が高まってきているはずなので、名目金利(実質金利+予想インフレ率)も高まるはず。つまり、貸出金利も上がるはずなのでは」という議論があったが、銀行に完全にきょとんとした顔をされていた。資産の市場はずっと需要超過(金あまり)で、銀行間の貸出獲得競争はかくも厳しい状態なのに、中銀が金融緩和したところでその構造が変わるかといったら、そんなことはないのだった。

5.じゃあどうすればいいのか

(1)規制緩和
  • モノの市場において需要不足が続いている状態で、供給サイドの構造改革は、それが供給の量を増やすことを意味する場合、不発に終わる可能性が高い。主流派のマクロ経済学では、モノの価格が下がれば素直に需要を増やす家計が想定されているので、モノの供給の効率化は効果的だが、特に買いたいモノはないけど5000兆円欲しい家計を想定すると、話は異なる。
  • モノの市場の需要不足を、個別の労働者の絶え間ないKAIZENによるモノの品質向上で解決する、そして政府は規制緩和でKAIZENを支援する、というのは本来あるべき美しいストーリーなのだが、特に買いたいモノはないけど5000兆円欲しい家計は、漸進的な品質向上に対して感応度が低い可能性がある。それこそ、スマホのように新しい“あって当たり前”を開発するしかなく、企業にとっては難易度が高い。
  • もともと、日本の生産年齢一人当たり実質GDP成長率は、G7の平均を上回るパフォーマンスを上げている*3。これだけ死にもの狂いで働いているのだから、生産性はもはや相当高いと考えられる。減反制度などの無駄な規制は粛々と廃止すべきであるが、反対勢力の政治力も考えると、この路線には厳しいものがある。
(2)規制強化(週休3日制導入)?
  • 平日忙しすぎて帰ったらぐったりしているし、土日も英気を養うのに手一杯でとてもうぇいうぇい遊んでいる余裕はない、という労働者にとって、そもそも消費をするだけの余暇が足りないという可能性もある。かくいう私もスプラトゥーンマジック・ザ・ギャザリングを遊び倒したいのだが、まったくやる時間がなくて困っている。
  • なぜこれほど労働者は忙しいのか。モノの市場の需要不足に直面した企業が、漸進的な品質向上すらできずに、労働者に長時間のサービス残業を強いる形でモノの価格をダンピングしている可能性がある。これは個別の企業にとっては価格競争力をつけるという点で合理的でも、マクロでみるとインパール作戦に近い状態だ。とくに買いたいモノがないけど5000兆円欲しい家計にとっては、安くなったからといって買う量を増やすわけでもなく、浮いたお金で別のモノを買うわけでもなく、とりあえず預金を増やすだけに終わる可能性が高い。
  • 逆に言えば、労働時間を削減しても、売上に対する悪影響は限定的なものに留まる一方で、時間当たりの売上は増加する(生産性が上昇する)可能性すらある。有給の取得の徹底だと、日本人は周りに気兼ねして自粛してしまうので、ここは周りも含めて全員強制的に労働時間を削減する週休3日制が妥当かもしれない。プレミアム・フライデー? 知らない子ですね……。
(3)財政拡大?
  • 「金融緩和がダメなら財政拡大しかない」という言説がある。先進国最悪のグロス財政赤字を抱える日本で、お前それ本気で言っているの? と財務省に怒られそうだ。しかし、モノの市場が需要不足であるおかげで、恒常的に資産の市場は需要超過にあるため、国債を毎年大量に発行しても難なく買い手が見つかってしまうのが現状だ。逆に、ちょっとでも緊縮財政をすると、政府支出の減少→モノの市場の需要不足→企業の設備投資意欲の減退→さらなる需要不足、となってしまう財政依存の末期状態に陥っている。
  • 原理原則から言えば、政府部門に資金が集中する現状は、非効率な資源の分配として潜在成長率を下げる方向に寄与して好ましくないが、短期的には、財政拡大が解となりうる。この場合において、政府がどういった支出を増やすべきかは、国会において民主的な正当性を得たうえで、決断されることになる。個人的には、子ども手当の拡大(年間500万円×18年間/人)や研究資金の拡大(博士号取得者に年間500万円×10年間/人)といった、なるべく官僚の裁量が少ない形での政府支出の拡大がよいと考えているが、これもまた“誰から取り誰に与えるか”といったイシューに関する、一人の有権者ポジショントークに過ぎない。
(4)紙幣の(段階的)廃止?

  • 2017年7月末時点で、日本国民は一人当たり79万円のお札を持っている*4 *5。これは未成年も含めた数字である。おそらく、多くの人の財布の中にはそんな大金は入っていないので、銀行に預金したくないニーズを持つ一部の個人が大量のお札を抱えている可能性が高い。実際、マイナンバー制度の導入以降、千円札の発行は横ばいである一方、一万円札の発行は増加している。4億円入る大型の金庫がよく売れているという報道もある。

  • 大量に一万円札を蓄える個人の、その5000兆円欲しいという気持ちは大いに尊重されるべきだが、脱税予備軍と疑われてもおかしくない。こうしたアングラマネーを潰す手段として、ハーバード大のロゴフは銀行券の段階的廃止と中銀による電子マネー発行を提案している。経済的には富裕層に対する課税なので、税収拡大と同時に格差是正が期待できる。また、中銀電子マネー化により、GDPの1%(日本だと5兆円程度)と試算されるお札の管理コストも削減できる*6
  • 金融インフラ会社としての中銀にとって決済業務は最古の業務であるが、まだまだ効率化の余地がある領域なのかもしれない。なお、中銀発行電子マネーの副次的な効果として、銀行だけでなく、家計や企業にもマイナス金利を適用できるという議論がある。5000兆円欲しい家計の意識を変えるには、意外と有用かもしれない。

*1:http://www5.cao.go.jp/keizai2/keizai-syakai/k-s-kouzou/shiryou/2th/shiryo3-1.pdf

*2:中銀の与信では、民間の銀行のバランス・シートの負債側に中銀からの借入が増え、資産側に中銀当座預金が増える。中銀の資産買入では、民間の銀行がバランス・シートの資産側に持っている国債が中銀当座預金に置き換わる。

*3:[http://www.boj.or.jp/announcements/press/koen_2013/ko130315a.htm/

*4:銀行券:http://www.boj.or.jp/statistics/boj/other/acmai/release/2017/ac170731.htm/

*5:人口:http://www.stat.go.jp/data/jinsui/pdf/201708.pdf

*6:http://cashessentials.org/cash-is-efficient/costs-of-cash-versus-costs-of-electronic-payment-instruments