「善人」は野たれ死ね――村上龍「愛と幻想のファシズム」

苛烈な一冊。中南米の国家債務のデフォルトを機に世界的な金融危機が起こるが、そうした状況に対して何も抜本的な対策をできない日本政府に人々はうんざりしていた。そこで強い指導力のあるリーダーが求められ、「進歩的」な左翼からファシストと批判されながらも、その政治結社が着実に支持を集めていく……というのがだいたいのあらすじです。現在の日本とそっくりですね。ただ面白いのはこのファシズムが、「弱者の犠牲になるな、弱者が我々を搾取している。世界は強い人間達のものだ。団結しなければならない」と語る点です。


過去のナチスのように没落しつつある中産階級の利益を守るのでなく、また社会主義のように強い資本家を挫いて弱き労働者を助けるといった建前もありません。多数派である弱者の支持を得ようとする政治ではないのです。では、一体誰を動員するための政治なのでしょうか。主人公の鈴原冬二の演説は次のようなものです。少し長いですが引用します。

「俺は君達と比べてもそんなに頭のいい人間じゃない、特別な才能があるわけでもない、
 ただ俺はハンターだ、
 日本で最も優秀なハンターだ、それだけは自信がある、荒野に放り出されても俺は生きていける、今この全員がアラスカでもいい北海道でもいいシベリアでもいい裸で放り出されたとしたら最後まで生き残るのは俺一人だろう、
 俺は雪や氷の上でどうやったら火を起こせるか知っているし、食用の草と毒草も見分けられる、罠でウサギを捕えられるしその皮を剥いで靴を作ることもできる(中略)
 今、何かがずれている、そのことがよくわかる、ずれてるんだ、
 野生の中で暮らしてみると、まったくずれは起こらない、
 カナダの羆は、半日がかりで湖に水を飲みに行く、北海道のエゾジカは一日がかりで山から草地へ移動して食事をする、サバンナの動物たちは一カ月もかけてえさを求める旅に出る、
 大変だと思うかい?
 それが当たり前なんだ、大昔は俺たちだってそんな生活をしていたんだ、何のために生きるかって、そんな下らないことは考えなかった、自分は不幸だなんて思うヒマもなかった、
 食わなきゃいけなかったし、水を飲まなきゃいけない、すべてそのために行動した、単純だったんだ」

このように、冬二は狩猟生活を理想とし、野においては生き延びられないだろう現代人たちを侮蔑しています。農耕を始めることによって人類は豊かになりましたが、それゆえこの農耕民族たちは「自分が何のために生きるのか」と考える余裕を持つようになりました。そして中には自分の境遇をみじめだと思い、野生の動物なら決してしないような自傷や自殺にまで手を出す人もでてきました。冬二の「何かがずれている」という発言の意味はおそらくこういうことです。
また狩猟民族と違い、農耕民族は集団の規模が大きいので、その分フォロワーシップを発揮しなくてはいけません。つまり上からの命令に無批判で従い、組織の歯車となる要員がたくさん必要なのです。これも冬二に言わせれば、軽蔑に値する百姓根性でして、こういった自分で判断することを放棄した百姓どもが群れて統治する民主主義は醜悪そのものだとかなんとか罵倒するのです。

「百姓」とは、「畜群」であり、「奴隷」であり、「善人」である

さて冬二が嫌う「百姓」とは、一体どういう人間のことなのでしょうか。おそらくそれはニーチェが「畜群」や「奴隷」と呼んだ、弱者たちのことです。彼らはただの弱者ではありません。自分たちが社会的に弱い立場にあることを逆手に取り、だからこそ自分たちに都合のいいように社会は設計されるべきだと説く、巧妙な者たちなのです。弱いということにプラスの価値を付け、単なる劣悪さを尊ぶべき「善い」ものであるかのように見せかけ、自分たち弱者こそが「善人」であるとアピールする者たちなのです。
ニーチェはそのような「善人」たちに満たされた社会の放つ悪臭に窒息しましたが、冬二はこれら「善人」たちを暴力でもって排除しようとします。それはどのような方法によってでしょうか。

野における淘汰

そこで最初に言及した、冬二の狩猟社会の理想化がきいてきます。もし仮に人類が文明を捨て狩猟生活に戻れば、いわゆる社会的弱者とされる人たちは決して生き延びることができないでしょう。自然が、彼らの生存を許さないのです。そのような野における淘汰こそが、冬二の願望なのです。だから冬二はただ単に「善人」に死ねと言っているのではありません。野たれ死ね、と言うのです。

それでも野生には戻れない

とはいえ、文明の便利さに慣れきった人類に野生に帰ることは不可能です。そのことは冬二も自覚しています。そしてそのように文明があることを前提にすると、そのような環境に適応した「善人」たちこそが、むしろ強者のようにも思えてきます。
人間にはただ単に生き延びたいという欲求以外にも、善く生きたいという欲求があります。そのような特殊な環境に適応した「善人」たちこそが、それへの不満を感じる強者たちを圧倒しているのではないでしょうか。本当に強者たちが強いのならば、決して弱者の犠牲になったりせず、まして団結する必要もないではありませんか。
本作はこのたたりの矛盾についてうまく解決することができずに、歯切れの悪い終わり方を迎えます。

全体主義としての「愛と幻想のファシズム

最後に、全体主義に関する思想を紹介します。
フロム「自由からの逃走」では、孤独な個人が連帯を求めて全体主義に走ると説明されていますが、これは思考停止した「百姓」たちの群れとしての全体主義なので、「愛と幻想のファシズム」とは違います。
またアーレントは「全体主義の起源」を、わかりやすい世界観によって複雑な現実を説明し、その「物語」によって画一的に社会を統制する動きを挙げています。 これは「愛と幻想のファシズム」にも当てはまるでしょう。現実には、「弱者が強者を搾取している」といったような単純な構図は無く、そもそも弱者と強者の定義も多様なのです。それを無理やり単純化して、その大きな「物語」の中で人々を動員するのは、まさにアーレントの批判した全体主義です。
ハイエク「隷従への道」においては、情報が分散化した複雑な世界で、中央当局が社会を人為的に「設計」しようとする試みが、人々の自由を破壊すると説明されました。「愛と幻想のファシズム」も独裁を効率的で迅速な意思決定を可能にするシステムとして肯定的に評価している点で、ハイエクの批判は当てはまるでしょう。どんなに万能の統治者でも、すべての情報を知り尽くして意思決定することはできないのですから、意思決定の分散化=自由主義が必要なのです。