世界政治 / ジェームズ・メイヨール

世界政治は「主権が大事だよ派」と「人権が大事だよ派」のせめぎ合いである。「主権が大事だよ派」は「国家は不可侵だよ、多元的な共存が妥当だよ」と主張する。「人権が大事だよ派」は「個人の身体は不可侵だよ、もしその国の政府がこの権利(自由、民主的価値)を侵害するなら国家への侵害(人道的介入)もやむを得ないよ、この権利は普遍的だよ」と主張する。
国際社会の最近の流れは、「主権が大事だよ派」から「人権が大事だよ派」へのシフトだろう。その理由として国家が必ずしも個人の人権の保護者ではないこと、経済力・情報発信能力の点で個人の権力が相対的に向上したことなどが挙げられる。国家が個人を虐殺することは全体主義国家ではめずらしいことではない。ソ連では2000万人、中国では6500万人、共産主義体制全体では1億人が粛清されたと言われている。*1  第二次大戦の総死者数ですら6000万人なので、いかに人権を軽視する全体主義がひどいかがわかる。マイケル・ウォルツァーは「無辜の民の生存を脅かす国家への戦争は道徳的に擁護できる」と主張した。*2  これなどは「人権が大事だよ派」の例だろう。
また個人の経済力(経済的自由)こそが紛争や虐殺を防ぐ上で重要だとする論者もいる。金持ちけんかせずではないが、たしかに経済的に自立した個人が略奪や虐殺に走ることは考えにくいだろう。虐殺防止のために、または純粋に貧困対策のために途上国への経済援助は幅広く行われてきた。しかし総額2.3兆ドルにのぼる開発援助によってアフリカ諸国の一人あたり GDPは半減してしまう。誤解を恐れずに言えば、政府が金をばらまくこと自体が、働かないで政府に頼る乞食を増やしてしまったのだ。*3
ケニアエコノミスト、ジェームズ・シクワチは次のように語っている。「お願いだから、もうこれ以上、援助しないでください。(中略)ただ同然の農作物が大量に流入することで、現地の農業は競争力を失って壊滅してしまう。」*4 先進国の無邪気な善意が途上国をいつまでも貧困のままにさせ、その貧困が紛争の遠因となっているというのはいかにもリバタリアン好みのシナリオだが、ありうる話だ。
楽観的なリバタリアンなら「少数派を説得して多数派の統治に納得させるものは何か」*5 という本書の問いにも、富の総量が全てを解決すると答えるのだろう。富が少ない環境では、その一握りのパイを奪い合う政治闘争は熾烈なものにならざるを得ない。たいして、政治闘争が退屈なゲームになるくらい、豊富なゲームで社会が満たされていれば、誰も好きこのんで政治闘争しようとは思わない。戦場で手榴弾を投げるよりも液晶画面の中でモンスターボールを投げるほうが圧倒的に楽しいはずだ。
日本でいくら「希望は、戦争」と煽ってもイマイチ盛り上がりに欠けるのは、ルサンチマンを解放するゲームがたくさんあるからじゃないだろうか。何も政治闘争なんてゲームで勝たなくとも、ほかに勝利を味わえるゲームはたくさんある。ネトゲでも、コミュニティでも、他者承認を味わえる機会は残されている。欧州でサッカーの盛り上がりが異常なのも、nation間の政治闘争がサッカーで代替されているからだろう。そういったゲームをもっともっと増やしていけばいいのだ。
だが経済発展が平和と相関関係にあるとしても、ある程度の平和(秩序)は経済発展の前提条件として必要になる。その秩序を作るためには、先進国が途上国にある程度介入する必要があると信じられている。とくにアメリカはデモクラシーこそが秩序の維持に必要で、そのためには戦争によって旧来の体制を破壊することもやむを得ないと考えていた。だがそんなお仕着せの秩序は、はたして安定した秩序をもたらしてくれるのだろうか? 
政治的システムを押し付ける介入の効果については僕もメイヨールと同様に悲観的だ。だが晩年のハイエクが語ったように、人間の本性は放っておけば自発的に市場秩序へ適応するものではない。比較優位などという直感に反する原理を基礎にする社会が生き延びたのは一種の奇跡なのかもしれない。ならばやはり僕たち自由主義諸国は、たとえ上から目線の設計主義と保守主義者に罵られようと、自由な秩序を創るために介入しなくてはならないのだろうか。

*1:歴史学者)ステファン・クルトワ共産主義黒書」1997年

*2:(政治哲学者)マイケル・ウォルツァー「戦争を論ずる―正戦のモラル・リアリティ」2008年

*3:(経済学者)ウィリアム・イースタリー「傲慢な援助」2009年

*4:(経済学者)ウォルター・ブロック「不道徳教育」2006年

*5:政治学者)ジェームズ・メイヨール「世界政治」2009年 97p