共生の作法 / 井上達夫

これぞ正義論。絶対的な正義などないのだから正義論なんて論じるまでもない、という冷めた価値相対主義は、実のところ正義に対する根本的な批判ではない。それは善にたいしては有効な反論であるかもしれないが、正義にとっては致命的な反論にはなっていない。たしかに文化や習俗が異なる者がいくら話し合っても、有限時間内にそれぞれが納得のできる「正解」をすべての争点において導きだすことは不可能だろう。「正解」の確証可能性がないという意味では、たしかに正義論はたわ言なのかもしれない。しかしそれは正義論がまったく不可能であるとか、まったく使えないものであるということを意味しない。たとえ完璧な「正解」へと至ることはなくても、議論をすることで僕たちはよりマシな結論へたどり着くことはできる。この暫定的な結論を絶えずバージョンアップさせていく過程を正義論と名付けるならば、それは可能であるし有益である。では井上が語る正義はなんであろうか。
まず正義はエゴイズムと対立する。正義の具体的内容についてはまだ語ることはできないが、それでも正義の根本的な要素として「等しきものは等しく扱うべし」という公平さへの志向がある。対してエゴイズムは「私を特別扱いしろ」という要求である。
たしかに「私」は主観的にはこの世界を唯一観測している存在であり、他者と比べて絶対的な価値がある。他人がいくら死のうがそれは悲劇として観測されるだけだが、「私」の死は単なる悲劇ではすまず、世界の終わりと等しい。そんな大切な「私」なのだから、少しくらい特別扱いしてくれてもいいという主張には多くの人が心の底では共感するだろう。
だが社会には「私」一人がいるわけではなく、複数の「私」たちがいる。だからそれが「私」だからという理由だけで、一人の「私」を特別扱いするのは公平ではない。では「私」たちがみな公平だと感じるルールとはなんであろうか。
残念ながら井上達夫はその正義の具体的内容については触れていない。具体的な政策や国際関係において何が正義かはコメントしていない。ただ、正義はリベラリズムであるとは明言している。リベラリズムは価値相対主義と主張を同じくすることもあるが、根本的に両者は相容れない。

相対主義は無謬性を僭称する独断的絶対主義を否定する点でリベラルな外観をもつが、これは外観にすぎない。相対主義は客観的価値に関する絶対的認識の標榜を斥けるだけでなく、客観的に妥当する価値の存在そのものを否定することにより、自己の価値の選びを不可謬のものとみなす権利を再び人間に与えてしまったのである。絶対主義と相対主義との間には、根拠を所有していると標榜するか、「根拠などなくてよい、我が意思こそ根拠である」と嘯くかの違いしかない。絶対主義が己れの恣意性を隠蔽する独断であるとするならば、相対主義は己れの恣意性に開き直った独断であり、いずれも対立する他者との果てしのない対話的緊張関係から退却して、自己の快適な独断の城に引き蘢ろうとする衝動をないほうしている点で同じ穴のムジナである。いずれも探求の一時的な停泊港ではなく、終着地を求めているのであり、この終着地を「認識」の名で呼ぶか「意志」(あるいは「情動」)の名で呼ぶかはたいした違いではない。これに対し、リベラリズムとは探求の非終局性を承認するが故に他者との終わりなき対話を引き受ける一つの覚悟のことである。*1


しかしリベラリズムといっても、それを自然権論的に理解するか帰結主義的に理解するかでかなり異なる。井上は功利主義を批判するので帰結主義的構成は採らない。どちらかといと、自然権論的に捉えているように思う。

そこでは人々は自己の善き生の構想に従って、自己の生を形成し得る自律的存在として扱われる。人々を結合させているのは善き生の構想(「期待される人間像」)や全体的行動計画(「国家の大計」)ではなく、多様な生が物語れる宴としての「共生(conviviality)」を可能にする共通の作法である。*2


結局は古典的リベラリズムリバタリアニズム)よりもやや現代的リベラリズム(いわゆるリベラル)に近い立場を政策的には支持しているのであるが、そこにいたる理由は「そのほうが人々が幸福になるから」といった功利主義ではない。何が正しいかを議論を通して探し出せる場を提供することに重点がおかれ、個人がそうした場に参加できるために経済的弱者への所得移転を支持している。


ぼくのかんがえたさいきょうのせいぎろん

さてここからは僕の意見になる。井上達夫は正義を正義論が可能な世界・正義について話し合おうとする状態というように定義しているように思う。誰かが誰かを正義の名の下に強制するような暴力的状態ではなく、ゆるやかな対話の機会が保障されているような、そうした状態だ。
そうすると政府(国家)というのは、その存在自体が不正義ではないだろうか。国家権力には会話によらず何かを強制できる力があるので、その暴力性は会話としての正義をぶち壊してはいないだろうか。
むしろ無政府状態の中で、会話可能な範囲で各人がゆるやかに自分たちの正義を追求していく、という形のほうがより井上のめざす正義に近いはずだ。各人がそれぞれのユートピアを自由に追求し、そのユートピア同士の適者生存が起こるメタ・ユートピアとして無政府状態を肯定したノージックのほうが、むしろ井上よりも井上的正義を追求しているのではないか。

全員が住むべき最善の社会が一つある、という考えは、私には信じられないものに見える。(中略)
導くべき結論は、ユートピアにおいては、一種類の社会が存在し一種類の生が営まれることはないだろう、というものである。ユートピアは、複数のユートピアから、つまり、人々が異なる制度の下で異なる生を送る多数の異なった多様なコミュニティーからなっているだろう。(中略)ユートピアは、複数のユートピアのための枠であって、そこで人々は自由に随意的に結合して理想的コミュニティーの中で自分自身の善き生のヴィジョンを追求しそれを実現しようとするが、そこではだれも自分のユートピアのヴィジョンを他人に押し付けることはできない、そういう場所なのである。
ノージックアナーキー・国家・ユートピア」504p


ノージックやロックのいう無政府状態無法状態ではなく、個人の身体・財産権の不可侵性は確立している。これが枠だ。しかしそれ以上のいかなる制約が妥当すべきかは議論の余地があるところなので、各人がそれぞれ自分の信じるユートピアを選択していくことになる。

我々は、三つのユートピア主義者の立場を区別することができる。つまり、全員に一つのパタンのコミュニティーを強制することを許す帝国主義ユートピア主義、一つの特定種類のコミュニティーに住むことを全員に対して説得しまたは確信させようという希望をもつが、それを強制しはしない伝道的ユートピア主義、必ずしも普遍的にではなくともある特定のパタンのコミュニティーが存在し(存続可能であり)、そうしたいと思う者がそのパタンに従って生きることを希望する実存的ユートピア主義、である。実存的ユートピア主義者は、枠を心底から支持することができる。(中略)伝道的ユートピア主義者達は、その熱望は普遍的だが、彼らの好みのパタンへの支持が自発的である点が決定的に重要だと考えるので、実存的ユートピア主義者達とともに枠を擁護するだろう。(中略)他方帝国主義ユートピア主義者達は、彼らに不同意の者が他にいる限り、枠に反対するだろう。
ノージックアナーキー・国家・ユートピア」518p


僕がコミュニタリアンに対して覚える不安は、彼らが帝国主義ユートピア主義へと堕落してしまいやすいのではないか、というものだ。実際に個人よりも大きな組織である社会に重点をおいた社会主義は、帝国主義ユートピアを地上で作り上げてしまった。
だが、もしコミュニタリアンが実存的ユートピア主義者ならば、僕は喜んでその立場を承認し、手を貸すことさえするだろう。政策的には古典的リベラリズムを支持してはいるものの、幸福は個人的な人間関係の中でしか生まれないと理解しているので、コミュニティは人生に不可欠だと思っている。しかしそれは政治家や役人の押し付けによって構築されるものではなく、今これを読んでいる生身のあなたや僕が、その個人的裁量の下で築き上げていくべき物語だ。

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