青色本 / ウィトゲンシュタイン

意外と面白かった。結局、独我論者にたいして「はいはいワロスワロス」ってたしなめているだけの、壮大なただし書きのようなものであって、一般ぴーぷるが読んでも「だからどうした」という感じではある。
独我論者とはどういう連中か。彼は、自分だけがこの世界で唯一の存在であると信じているため、他人というものを想定できない。独我論者はこう考える。彼以外の人間は、単なる現象に過ぎない。彼の感覚する「経験」だけが確からしい唯一の「経験」であり、他人のそれは「経験」っぽいなにかでしかない。そこには彼の体験する「本物の」手触り、「本物の」痛み、「本物の」生はない。
青い本のあのなんとも青い感じ、虫歯の時のあのずきずきとする痛み、それらの「経験」を「はーい僕、今感じてまーす」と叙述する事は、他者にもできよう。しかしそれはあくまでも、そのような語句を発する現象にすぎず、彼が「経験」する「本当の」質感が、「本当の」意識が、そこにあるかは不確かだ。

とはいえ独我論者も、ちゃんと他者に共感して日常生活を送り、僕たちと同じ事実世界を観測して生きているわけで、要は、彼の経験を《本当の経験》と呼び、彼以外の他者の経験を《経験》とは呼ばない、そういう表現法のゲームに付き合ってあげれば、それで彼も満足してしまうわけですよ。あほか。
いやまあ「事実世界などない、すべては認識にすぎない」とか懐疑主義的にふるまって生きたいところではあるし、そのほうが誠実な気もするんですけど、日常生活でそれやっている暇ないですからね。

ウィトゲンシュタイン「口では懐疑主義を唱えていても、身体は現実の確実性に正直だな。しっかりと言語ゲームしているじゃねぇか、ぐへへ」  
分析哲学者「くやしい…でも言語ゲームしちゃう!」ビクンビクン ――ウィトゲンシュタイン「確実性の問題」

「自分の痛みだけが本物だ」という人は[実は]他人が痛いと言うのはみな嘘だということを公共的[判定]基準―――言葉に公共的な意味を与える基準―――によって発見した、と言うつもりではない。その[公共的]基準に従ってこの表現を使うことこそ彼が承知できないことなのだ。つまり、この語が一般に使われている仕方で使うことに異議を立てているのである。ろころが、彼は自分がそのように或る規約に反対しているのだということに気付いていない。例えば、「デボンシャ」の名を現在設定されている境界での郡ではなく、それと違う区域に当てて使いたいように感じる。だから彼は、「ここで区切ってこれを一つの郡にするのはおかしいじゃないか」、と言えば言えたのである。しかし彼は、「本当のデボンシャはここである」と言うのだ。それには、「君が望んでいるのは単に或る新しい表示法なのだ。だが表示法を変えても地理学上の事実は何ら変らない」と答えられよう。*1

独我論者と我々が呼ぶ人、そしてただ自分の経験のみが本当のものだと言う人、その人は何もそれで実際的な事実問題について我々と食い違いがあるわけではない。我々が痛みを訴える時、ただそのふりをしているだけだと彼は言わないし、他の誰に劣らず気の毒に思ってくれる。しかし同時に彼は、「本当の」という、通り名を我々が彼の経験と呼ぶべきものにだけ限りそして多分更に我々の経験をどんな意味であれ「経験」とは呼びたくないのである(ここでもまた、我々と事実問題で食い違うことはない。)*2

*1:132p

*2:137p