複数の自己たちのためのリバタリアン・パターナリズム

法は誰かが誰かを拘束するものである。治者と被治者の自同性が認められれば、その拘束には正当性が認められる。この考え方の前提にあるのは「自分のことは自分が一番よく知っており、その自分が決めたルールのなのだから、自分は拘束される」という思想である。だがこの前提は正しいのだろうか? 
少なくとも僕は自分のことがよくわからない。試験前に、よーしパパ今日は商法8時間勉強しちゃうぞーと意気込んでいたら、なぜかニコニコ動画くだらない音MADを3時間見てる自分に気づき、愕然としたりする。そんなときは自分というものがいい加減な概念だなと思う。だが現在の自分が過去の自分の想像とは別物だからといって、人格の連続性が失われるわけではない。自己嫌悪することもあるが、なお人格の同一性は保たれている。
しかし、いったんここで人格というものを分解して考えてみたい。人格は、複数の異なる欲望を持つ「自己」の集まりにすぎない、と定義するのがより正確ではないだろうか。time1において「自己1」は意思決定し、その意思決定はtime2以降の「自己n」に影響する。治者と被治者の自同性からすれば、「自己」はいかなる意思決定をしてもいい。だがそれは必ずしも将来の「自己」にとって有益とは限らない。

Laibson(1997)は、個人が必ずしも時間を通じて整合的な単一な自己からはなっておらず、ライフプランについての意見の異なる複数の自己(今日の自分、明日の自分、・・・・・)からなっている場合には、借金の規制がこれら複数の自己たちのすべてをより改善することがありうることを示した。言い換えれば、個人を複数の自己達からなる一つの社会と見立てた場合、借金の規制はこの社会をパレート改善する、ということである。
通常のモデルにおいては、借金というのは将来の消費でもって現在の消費を買う行為に他ならないから、その規制および強制貯蓄は商取引の妨害でしかない。しかし、個人が利害の異なる複数の自己たちからなる場合は、そうしたfrictionがcommitment deviceとして機能することがあるのだ。
行動厚生経済学とリバータリアン・パターナリズム - Metaeconomics


「自己」とは言ってみれば身体という小さな社会の日替わり代表者(または当番制統治者)なのである。その代表者が、私利私欲に走らず、常に小社会全体の利益のために行動せざるを得ないような制約を課すのは、有益ではないだろうか。「汝の意志の格率が 常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」とカントはのたまったが、汝=自己n、普遍=個人として置き換えてみると面白い。つまり、「自己nの意志の格率が 常に同時に個人的立法の原理として妥当しうるように行為」せざるをえないような立法を置き、「自己」を制御するという話である。

「わたし」のアイデンティティ

しかし、複数の「自己」たちのパレート最適は、一体どのような基準で決めればいいのだろうか? 借金なら、破産していない状態というように「自己」たち全てに望ましい状態を容易に想定できるかもしれないが、飲酒規制・麻薬規制・売春規制・社会保障制度・教育制度などなど、どういった「自己」が望ましいかは判断が難しい。
そもそも望ましい「自己」を決定するということは、その「自己」の状態こそが、個人の人格上不可欠な、核となる部分である必要がある。だが、「わたし」が異時間点で異なる選好をもつ精神の集まりだとしたら「わたし」のアイデンティティはどこに置かれるべきなんだろうか。そこに「自己」たちの全会一致はあるのだろうか。多数派「自己」たちによる「わたし」の民主的統治があればいいのだろうか。
たとえ「自己」たちの間で意見が一致しても、社会のメンバーである他の「わたし」との間で意見は一致しないかもしれない。そのとき望ましい「わたし」のあり方はどうやって決定すればいいのか。健康である「わたし」こそが「わたし」であるべきなのか。服従から逃れた「わたし」こそが「わたし」であるべきなのか。
どうしても、そこには誰かの、あるいはいつかの「自己」の恣意的判断が入ってきてしまう。その恣意的判断を無邪気に中立的な法へと言い換えるとき、僕たちは想像以上に大きな賭けに踏み出していることをわきまえておくべきだろう。フーコーが言うように中立という立場こそがもっとも隠密にやりたい放題できる立場なのだから。