哲学者・山脇直司氏への公開書簡――誰が公共哲学をファイナンスするのか

先日「公共哲学とは何か」を批判的に取り上げたところ、著者である山脇氏から「私自身はこの本が貴方の言うように「無害ないいとこどりの本」とは全く思っておりません(中略)現代社会のあり方について激しく論争しましょう。」とのコメントをいただきました。
僕も市民の端くれとして、このお誘いには誠実に対応しなくてはならないでしょう。というわけで山脇氏の講義で教科書にも指定されている「グローカル公共哲学」の書評とともに、僕の意見を述べたいと思います。
結論から言えば、それは「この公共哲学は理想主義ではあっても、理想的現実主義ではないのではないか」ということです。


ここでは「正義」の話はやめよう

まずはじめに断っておきますが、僕は公共哲学が目指している価値について、その是非を判断しません。つまり何が正義だとか、何が倫理的だとか、語るつもりはないということです。それはこの記事の主題ではありません。
(むしろ個人的に、グローカル公共哲学的な世界が実現したら、それはさぞ望ましい状態だろう、とすら思っています。ですがこれは傍論)

これからは「手段」の話をしよう

僕が話したいことは、「公共哲学的世界を実現するための道筋を、公共哲学は示せていないのではないか」ということです。
山脇氏はロールズの思想を「「政治的べき」論から、社会の「ある論」を経て、政策的な「できる論」への具体的道筋は、切り開かれていないように思われる。」*1 と批判しています。このように、公共哲学は「公共哲学的世界を実現するための手段を示すことも公共哲学の範囲内」としています。

ならば公共哲学は「公共性なんてどうでもいい。おれは好きにやらせてもらうぜ!」と考える利己的な個人を、いかに公共哲学的な世界へと動員するか、真剣に検討しなくてはいけないはずです。たしかに、そういった利己的な個人を「公共的でない」と倫理的に批難することは可能です。しかし、彼らもまた国家や社会や経済の一員なわけです。そういった「私」もまた「公共」の一部のはずです。ならば「私」を公共哲学的世界へと導くインセンティブを設計することも、公共哲学の任務のはずです。

公共哲学は経済的自由主義と両立すべきか

じゃあお前はどうなのよ、というと僕は経済的自由主義を支持しております。「利己的な個人が自由に活動することで、結果的に経済的な富が生み出される。よって自由な秩序こそが望ましい。富の再分配は国家によって達成されるし、社会的な価値の創造については、個人や私的組織が自己の裁量のもとで実行されている」という立場です。
この経済的自由主義のいいところは、利己的な個人の力を利用して社会を良い方向に持っていける点にあります。またとりあえず規制緩和すればいいので政策的にも実現しやすい、というのメリットです。(もちろん政治的にはきわめて実現しにくいのですが。)

しかし山脇氏は自由主義に冷淡です。リバタリアニズムにはこう批判されています。

リバタリアニズムには、人々の社会福祉をどう考えるかについての考えが乏しいほか、人々によって創出される公共世界というコンセプトも存在せず、したがってそれは公共哲学と親和し難い思想と言ってよいだろう。*2

また新自由主義(おそらく経済的自由主義と同義)にも、公共哲学とは相容れないと断言しています。

ネオ・リベラリズムは、「小さな政府」の名の下に、企業の減税、福祉予算の削減、公営企業の民営化、市場の自由化を押し進めるが、「民や国家や私企業が担う公共性」という理念には疎遠であり、グローカル倫理と両立不可能なイデオロギーと言わなければならない。*3

たしかにリバタリアンや経済的自由主義者は利己的で、その人自体はなんら公共的ではないかもしれません。しかし真に公共哲学的世界を実現するためには、そうした連中をも巻き込んでいかなくてはならないはずです。逆に、自分とは相容れない思想を切り捨てることは、まったく公共的アプローチとは言えません。

だから僕は公共哲学と経済的自由主義は両立し得るし、むしろ両立すべきだとすら考えています。

誰が公共哲学をファイナンスするのか

格差、貧困、良質な雇用の減少といった社会問題は、不合理な規制を撤廃して経済成長することで解決に寄与できます。また、国家制度が自由主義的であっても、私人が自己の裁量のもとでコミュタリアン的な地域社会を創ることは可能です。むしろ、「公共哲学を実践する余裕」というものは、人々が経済的に十分に豊かでないとありえないと思うのです。
どんなプロジェクトもそうですが、それが単に望ましいだけでは実現しません。それをやる人々が飯を食える状態にならないと、現実的に動かないわけです。つまり、どこかから資金調達(ファイナンス)する必要があります。国家ですら、納税者からの税金というかたちでファイナンスされています。
公共哲学というプロジェクトも同じです。やはり日々銭を稼がなくてはならない労働者にとって、大学から給料の出る山脇氏と同程度の公共哲学的実践をするのは無理だと思うのです。だからベーシックインカムが実現して誰もが社会問題に取り組む時間と余裕を当たられてようやく、公共哲学というプロジェクトは現実的になると思います。

  • 公共哲学が単なる理想主義から、理想的現実主義になるためには、利己的な個人も「公共」の一部として巻き込んでいく必要があるのではないでしょうか?
  • 利己的な個人ですらも公共哲学のファイナンスのために役立てるようになってはじめて、公共哲学は真に公共的たりえるのではないでしょうか?

以上が僕の山脇氏への質問になります。とりあえずミルトン・フリードマンの提唱している「負の所得税導入と規制緩和のセット」あたりは、公共哲学も提唱すべき政策論ではないかと思います。
長文、失礼いたしました。


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