実践 行動経済学 / リチャード・セイラー, キャス・サンスティーン

リバタリアンパターナリズムという思想がある。リバタリアニズムは「市民はバカだが政府はもっとバカなので、市民の判断に任せるしかない」というものであり、パターナリズムは「政府はバカだが市民はもっとバカなので、政府が介入するしかい」というものだ。これほどかけ離れた思想がくっつくことなどないように思えるが、行動経済学リチャード・セイラーはこう考える。「自由とは、人々が「選択の自由」を実感できることであり、実際に無限の選択肢を用意しなくともよいはずだ。そもそも無限の選択肢など幻想にすぎない。むしろ政府が恣意的に選択肢を用意することで、人々がより幸福になることもありうるはずだ」と。
たとえばカフェテリア(学食)の料理の配列を変えるだけで、その消費量を25%もコントロールすることができるという統計がある。これは人々が、より近くの料理を取り、遠くの料理をとらない傾向があるためだ。では、カフェテリアの管理者がとるべき道は次のうちどれだろうか。

   1.総合的に判断して、生徒たちにとって最善の利益になる食品を並べる
   2.食品を並べる順番をランダムに選ぶ
   3.子どもたちが自分で選ぶだろう食品を選べるように並べる
   4.最高額の賄賂を差しだす供給会社から調達する食品の売上高を最大化する
   5.儲けを最大化することに徹する

自由主義者が好きそうなのは2か3か5だろう。実際に企業が取りそうなのは4か5だろう。だが、社会の幸福を考える人が取るべきなのは、明らかに1である。重要なのは、この1〜5の戦略すべてが、消費者に「選択の自由」を保障していることである。彼らはなにも強制されていない。ただ、内なる本能に従って選んでいるだけである。
しかし、実際に彼らがどれだけ健康か・幸福かは、事前にどんなシステムを設計するかというアーキテクチャ(設計思想)に左右される。このような選択アーキテクチャを、社会の幸福につながるよう設計すべきというのは、恣意的な介入という点ではパターナリズムだ。しかし、実害がないどころか、きわめて実益のあるパターナリズムである。このように「選択の自由」を保障し、人々の行動を予測して自分のためになるようにシステムを設計すべきだ、という考えをリバタリアンパターナリズムと呼ぶ。
帰結主義自由主義者(自由を尊重する社会の方がその結果として人々が幸福になるよ派)は、このリバタリアンパターナリズムを否定できない。パターナリズムは何であれ好ましくないと考えるより過激なリバタリアンは「そもそも社会が設計できるなどというのがおこがましい。人々の多様な嗜好を全て満たせるような設計など存在しない。だから政府による設計は、人々をいやいや服従させるだけだ」と考える。だが人々の欲望はそんなに多様なのだろうか? 誰しもが共有する総意だってあるだろう。たとえば「もっと金がほしい」「健康に生きたい」などだ。そして現状の「選択の自由」のもとで、その需要を市場が十分に満たすことができないのならば、政府が介入すべきということになる。
人々は経済学の教科書に書いている通りに行動しているわけではない。いちいち費用便益分析をして効用最大化に励んでいるわけではない。惰性と気まぐれで非合理的な選択をし続けていることのほうが多いだろう。それに、無数の企業が広告などのマーケティング技術を駆使して、僕たちに商品を買わせるようにしむけている。個人の信条と組織の目的は一致しないから、組織は個人に介入すべきでないという素朴な自由主義など、人間を無菌状態で純粋培養するぐらい無理がある。
僕たちは無数の目的をもつ組織の洗脳に絶えずさらされている。現実は常に何らかの意図により修正されている。それが私企業であれば「より多く製品を買ってもらうことによる利益最大化」であるし、NGOであれば「組織の目標(多くは社会貢献)に沿うよう行動してもらう」ことだろう。政府だって自らの目標(国民の幸福)のために、僕たちの直面する現実を改良したっていいだろう。
リバタリアンパターナリズムはビッグ・ブラザーへの第一歩だと言う人もいるかもしれないが、相反する無数のビッグ・ブラザーが洗脳合戦にいそしむこの世界では、もはや単一のビッグ・ブラザーは成立しえないのではないだろうか。