スペース・コロニーとか心底どうでもいい人でも読める倫理学――稲葉振一郎「宇宙倫理学入門」

正直、宇宙にはあんまり興味がない(ついでに言うとガンダムも観たことない)。マイクロ波送電による宇宙太陽光発電の実用化(「100年予測」参照)や、さらにその先の軌道エレベーター実用化ぐらいになってくると、新たな産業としての興味も沸いてこようが、ロケットの打ち上げに一喜一憂している程度の現状において、なにか考えるべきことがあるのだろうか、というスタンスであった。多くの人にとっても、宇宙とは、遠すぎる場所であり、人間として生きるには極限状況すぎる論外の場所なのではないだろうか。
本書も、宇宙における倫理学というよりも、人間が宇宙に行く意義とその物理的な困難性を比較したうえで、生身の人間には荷が重い、と結論づけている。これ自体に異論はないだろう。面白いのは、さらにその先で、生身の人間には無理でも、身体改造した人間にはできるかもしれないし、アップロードされた人間の知性を備える機械にだったら余裕だろう、という話になることで、宇宙という物理的なフロンティアを舞台にすることで、“人間”の定義におけるフロンティアが、実際の問題として立ち上がってくることだ。
この問題には、ポリスの時代の哲学者も、近代の自由主義者も、うまく答えることができない。

古典的な徳倫理学が、あるべき理想的な人間性を目指して、具体的な人間を訓練することを素直に目指すことができたのは、そうした理念的な人間、完成された有徳の人のイメージを、共和主義的都市国家の市民として、具体的に想定できたからであるし、他方近代のリベラリズムが、あるがままの人間存在に対して介入や操作を禁欲せざるをえなかったのは、そのような理想の人間像を自明なものとして想定することができなかったからである。*1


近代=あなたや僕の“人間”としての徳に優劣はない、ということを前提にした社会、であるとのこと。

すでに私は功利主義陣営とカント主義陣営をともに通貫して、リベラリズムの根底には「行為の自由」以前に「存在の自由」、あるがままの人々の生の肯定、容認がある、と論じた。リベラリズムは人々に対して、「あるべき理想の市民」とか「士大夫」になることを強制しないのはもちろん、奨励することにさえ禁欲的である。人々が自ら望んで、自らの責任で自己改造すること、学び成長することはもちろん肯定し、一般論としては奨励するとしても、特定の方向づけは避ける。
(中略)
つまりは、人々の自由な自己改造の結果、全体社会のレベルで人々の能力、性質(つまりは「徳」)が大きく変化しまた多様化することを、可能性としては認めてはいても、積極的に予想してはいなかったのである。
(中略)
それだけではない。そうした人間改造が、次世代、生まれてくる子どもへの優生学的介入や、人格的ロボットの製作までを含むものになれば、それは当然に――対等な個人間の合意による社会構築という――リベラリズムの射程を超えてしまうのである。*2


現代=ポストヒューマンが論点となる時代、ということだろうか。僕個人はリバタリアンなので、どこまでが人間としてあるべきか、みたいな議論を通して社会的なコンセンサスを得ること“なし”に、一人一人の個人が、他者の身体・財産を侵害しない限りにおいて、好き勝手やればいいと思っている。もはや、テクノロジーがそこまで発達した段階においては、既存のstateのenforcementを超えて、宇宙というstatelessな場所において、人間性は拡散していく一方になるだろうし、そうした状態を「よくない」と否認しても仕方がないのではないだろうか。

*1:168p

*2:190p