CODE VERSION 2.0 / ローレンス・レッシグ

未来の古典。法学部生なら全員読むに値する。古典的自由主義の文脈では、自由への脅威は政府がつくる法(law)だとされる。法は、たとえば「未成年が喫煙をすると罰則がある」という形で人々を脅している。
しかし、自由の敵は政府だけではない。コミュニティのメンバーが共有する規範(norms)にだって行動の自由は拘束される。喫煙者が煙たがられているのは、規範による規制だとも言える。また市場(market)が提供していないサービスを買うことはできないので、ここでも一種の規制があると言える。タバコの価格が上がったり、種類が少なくなることで、好きなタバコを気ままに吸う自由は失われる。
そしてレッシグが強調するのはアーキテクチャ(architecture)による規制だ。タバコにはフィルターがついており、有害性が減っているため気軽に吸うことができるが、もしこれがなかったら、おいそれと吸えるものではなくなだろう。
サイバー空間ではこれら4種の規制のミックスのうち、アーキテクチャの占める割合が大きい。たとえばネトゲでは、その仮想空間を成立させるコードそのものが、人々が自由に行動できる範囲を決定する。
現実世界におけるコードは自然法則だ。この宇宙が設定した物理的な制約が人々の自由を規制している。たとえば事件の調査をするには足をはこんで現場に踏み込まなくてはならない。どこかに侵入することなしに捜査はできない。
しかし、サイバー空間においては、侵入されたと気づかれることなく捜査ができる。人々が持っているコンピュータにワームを仕込み、テロに関わってそうな情報を検索させるなんてこともできてしまう。さて、こうした場合に、過去のコードを前提にして「人々の権利を侵害する、令状なき捜査を禁止した憲法」はどのように解釈できるだろうか? 物理的な侵入がなく、プログラムのみが侵入し、情報を入手する捜査にたいして、憲法起草者たちならどのように判断したのだろうか?

(a)人々が、その人、家、書類、およびその関連物において、不合理な捜索や押収・拘束に対して保護される権利は、これを侵害してはならず、そして
(b)正当な理由に基づき、証言や確認よって支持され、捜索されるべき場所や、押収・拘束されるべき人物や物を個別に記述していないような令状は、これを発行しない。
(中略)
もとの仕組みには、かなりいろいろ前提がある。一番明らかなのは、不法侵入法のコモンロー体系を前提にしていることだ――そもそも捜査官が令状をとるインセンティブを作りだしているのは、この不法侵入法に基づく法的な賠償責任が怖いからだ。この前提は、憲法のもともとの保護範囲の核心に、所有物を置いている。
同じくだいじな点として、この仕組みは当時のテクノロジーをかなり前提にしている。憲法修正第四条が不法侵入に絞られているのは、当時がそれが捜査の主な方式だったからだ。もし家の中を、家に入らずに外から見られたなら、今の修正第四条の制限はあまり意味を持たなかっただろう。
(中略)
前提条件――当然のことと思われていたり、議論の余地がないと思われているもの――は変わる。前提が変わった時、われわれはどう対応するだろうか。ある前提を背景に書かれた文を、その前提がもはや適用できなくなたっときはどう読めばいいだろう。*1


ひとつの方法としては、憲法修正第四条を文言通りに読むということだ。物理的な不法侵入を禁止する法律で、コンピュータへの介入を禁止することはできない。この文言は不法侵入に対する保護しか保証していない。
もうひとつの方法は、憲法修正第四条が提供した保護を明らかにし、それを今の文脈の中で読みかえるという作業だ。たとえば、この文言はプライバシーの侵害に対する保護を規定していたのかもしれない。そしてプライバシーの侵害が不法侵入という手段によってのみ実行された時代なら、プライバシーを保護するために不法侵入を禁止すればそれで足りた。しかし、不法侵入以外にもプライバシーを侵害できる手段が発明された現在においては、プライバシー保護の憲法を文言にある不法侵入以外にも適用すべきだろう。
憲法起草者たちはどちらの方法を選択すべきかを答えてくれない。これらの「あいまいさ」は、テクノロジーが変わるまではずっと隠されてきたものだ。現在の僕たちが民主主義に則って、決定をしなくてはいけないのだ。


なぜ「あいまいさ」に対して選択をすべきなのか

それがサイバー空間においてますます自由が失われているからだ。自由を犠牲にするほどの価値がそこにあれば規制も容認できるのだが、本当にそんな価値があるという合意を僕たちはしていない。むしろ、規制によって達成できる価値よりも自由のほうが重要ならば、自由を守るべきなのだ。とくに規制が規制であることに気づきにくいアーキテクチャによる規制の場合には。
レッシグはサイバー空間が、自由なものから規制されるものへとますます変化していくと主張している。コードの作者は政府にたてつく英雄的なハッカー(いい意味のほう)から、大企業に雇われているサラリーマンのコード書きへと変わってきている。そして分散したハッカーは規制できなくても、小数の大企業を規制するのは簡単だ。ビジネスマンは金儲けができればそれでいいので、政府に反抗するイデオロギーなど持ち合わせていない。*2


アーキテクチャによる規制が、法による規制よりも望ましくない場合――ポルノ規制

では政府による規制にたいしてなんでも反対すればいいのだろうか。市場が自由に商品を開発するのに任せていけばいいのだろうか。違う。むしろ市場が提供するアーキテクチャのほうが、より深刻な自由に対する脅威となる場合もある。
ポルノ規制について見てみよう。ポルノとは、わいせつ物ではなく児童ポルノでもなく、最高裁が「未成年に有害」な性的に露骨な言動とするものである。レッシグの見解は、情報の送り手が規制対象になりそうな有害な部分をタグでくくり、情報の受け手の側のフィルターではその部分を見えなくする、というものだ。(たとえば、ブログ管理者がタグでくくった部分は、未成年のアカウントでは表示されない。情報の受け手の側が成年のアカウントを使っていれば、ちゃんと表示される)。
これにたいして、ポルノを法的に規制する必要はない、親がフィルタリングソフトを使い、子どもをポルノから遠ざければそれでいいという意見がある。これこそリバタリアン好みの見解なのだが、レッシグは全力をあげてつぶしたい見解だと述べる。

市場が作ったフィルタは、国がここでもっている正当な利益によるもの――言論のブロック――よりはるかに広いフィルタリングをしてしまう。しかもそれを、まったく透明性のない形でやってしまう。まるでまちがった理由のためにフィルタに入れらてしまったサイト(フィルタを批判しただけのものもある)については各種のおっかない話がある。そしてフィルタで不正にブロックされた場合でも、対策はほとんどない。フィルタは単にきわめて強力な推薦リストでしかない。ザガット・レストランガイドがほかの店に客を流してしまうからといって、訴えることはできない。*3


政府による言論規制ならば、透明性があるし、訴えることもできるが、コードによる言論規制はそうはいかない。リバタリアンは政府による規制に何でも反対することによって、有用な法と無用な法の区別を無くしてしまっている。放置していれば無用な法はますます増え、政府の失敗は積み重ねられるばかりだ。
市場の失敗を緩和するマシな法を政府に作らせようと努力しないことで、現状を嘲笑しながらも追認してしまっているリバタリアンを、レッシグは「リバタリアンの失敗」として批判する。無用な法ばかりつくる政府に懐疑的にならざるをえないのはたしかだが、だからといって政府をよりマシな方向へ動かすために、よりマシな規制を提案することを怠ってはいけないのだ、と。

*1:220p、223p

*2:100p

*3:355p