立法府を分割しよう、あるいは二院制の本来の趣旨――ハイエク「法と立法と自由III」

ハイエクによれば現代の議会制民主主義の最大の欠点は、法が恣意的に立法されている、ということです。立法府と行政府の境目があいまいなため、行政の都合(政府という組織の都合)のために法が制定され、法の本来の機能である権力の制限とそれによる人々の予測可能性の担保が図れなくなっているのです。だからハイエクは、立法府の分割を主張します。それが、短期の選挙によって選ばれ特定利害を代表する代議士で構成される行政院と、15年の長期の任期を持つ15人の代表者から構成される立法院です。

「法」対「命令」

ハイエクによれば、現在の「立法」は「法」の制定というよりも、むしろ政府という組織の「命令」です。それは特定の目的を持ち、特定の利害を満足させるために発せられる、恣意的なものです。本来の「法」は、特定の目的を持たず、生活の基盤として誰にとっても利用されるインフラのようなものです。貨幣や言語などのような、社会を成立させるための最低限のインフラであり、決して一部の人に特権を付与する手段として使われるものではありません。
しかしこの「法」の意味は、歴史を経るにつれて全く別の意味へと変容してしまいました。

立憲主義創始者にとって、「法」という用語はきわめて厳密な狭義の意味をもっていた。この意味における法によって政府が制限さえる場合にのみ、個人的自由の保護が期待された。19世紀の法哲学者は最終的に、法を他人にたいする個人の行動を規制するルールとして定義した。また、これらのルールは未知数の将来の事例に適用でき、しかもあらゆる個人と組織された集団の保護される領域の境界を(むろん詳細に述べるのではなく)決める禁止令を含んでいるとされた。(中略)
民主主義的理想の明らかな勝利と共に、法を制定する権力と命令を発する行政権力が同じ集会の手に握られてしまった。その結果、必然的に、最高の統治権はその時々の特定目的を達成するのにもっとも役立つものであれば、どんな法でも日々、自由に手にいれることができるようになってしまった。だが、それは必然的に法の下の政府という原理の最期を意味した。単に厳密な意味での立法だけでなく、また行政も民主主義的手続きによって決定されるべきであると要求することは十分合理的であったが、両方の権力を同じ集会(一つないし複数)の手に委ねることは、実際には無制限の政府への復帰を意味した。*1


民主制は王制よりもマシです。少なくとも多数派のために立法されるのですから。しかし、多数派だからといって完全に一般的な利益のためだけに立法することはありません。実際の代議士は、特定の利害団体の票を集め、その一部の人々を買収するために、彼らに特権を与える命令を下します。そしてその命令は、いまや法と呼ばれるのです。


法と恣意的政府

この発展の結果は単に政府がもはや法の下にないということではなかった。それは法概念そのものが意味を失うことでもあった。いわゆる立法府はもはや一般的ルールという意味での法を制定すること(ジョン・ロックはそうあるべきだと考えていた)に限定されなくなってしまった。立法府」が決定したあらゆるものは「法」と呼ばれるようになり、もはや立法府は法を制定するために立法府と呼ばれるのではなく、「法」が「立法府」から生まれるあらゆるもにたいする名称となった。こうして「法」という神聖な用語はその古い意味をすべて失い、命令――立憲主義創始者たちがおそらく恣意的政府と呼んだものから発せられる命令――にたいする名称となってしまった。行政は「立法府」の主要業務となり、立法はそれを補助するものとなった。*2

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