僕たちが全知なら正義は必要ない――ハイエク「法と立法と自由II」

ハイエクの独特な正義論は、僕たちの無知を前提にしています。僕たちの人生の目的はどのようなものかは多種多様ではっきりしないし、それゆえそのはっきりとしない抽象的なニーズたちの「どれがより重要でどれがより劣後されるか」の序列を知り得ることはできません。そうすると僕たちに普遍的に強制されるべきルールとは、積極的な「これをすべき」という命令ではないことになります。全知の人がもしいたら、僕たちのニーズを全て汲み取れるので、命令できるのですが、僕たちはそうした命令を下すにはあまりにも無知すぎます。

おそらく、ここで全知全能の人びとからなる社会では正義概念の余地がないことを指摘しておくべきであろう。そこでは、あらゆる行為は予想通りの効果をもたらす手段と判断されるにちがいないし、全知全能というなかないはさまざまな効果の相対的重要性にかんする知識もおそらく含まれるであろう。すべての抽象物と同様に、正義はわれわれの無知――どんなに科学が進歩しても完全には除去することができない特定の事実にかんする永遠の無知――への適応である。大きな社会の秩序は抽象的で目的独立的なルールの遵守によってもたらされるにちがいない。これは事実にかんする共通のヒエラルキーを欠いているためである。 *1


ということで、僕たちに普遍的に強制されるべきルールとは、ニーズの同士の衝突を避けるための境界線のような、「これをしてはならない。が、これ以外だったら自由にやってよい」という消極的な命令になります。

正しい行動ルールが実際になすことは、どんな諸条件の下であれこれの行為が許容されているかの範囲を示すことである。しかし、それらはこうしたルールの下にある個人に自らの保護領域の創造をまかせる。あるいは、法律用語でいえば、そのルールは特定の人びとに諸々の権利を賦与するのではなく、むしろ獲得できる諸条件を規定する。人びとの領域がどうなるかは、一部はその行為にかかっており、また一部は制御を超えた諸事実にかかっている。ルールは確認できる諸事実から、自分と他者が独力で切り取ることに成功した保護領域の境界を導きだせるようにしてやるだけである。*2

功利主義批判

ハイエクは、功利主義は正義たりえないと批判しています。なぜでしょうか。功利主義は僕たちの「効用」を基準に、社会を設計する思想です。「効用」が個人にとって有益なものである以上、功利主義も必然的に「正しい」と言えそうなのですが。

本来「効用」は、「有用性」という用語がなお明瞭にそうであるように、手段の属性(潜在的な諸用途をもちうるという属性)を表していた。あるものが有用であったとは、起こりそうな情況のなかでそれが利用できたことを示していたし、有用性の程度はそのものが役に立つことを証明する情況が生じる見込みと、それが充足すると思われるニーズの重要性とに依存していた。手段の属性を意味する効用という用語が、それが貢献するさまざまな諸目的に共通すると考えられる属性を叙述するためにもちいられるようになったのは比較的最近のことにすぎない。*3

つまり、「効用」とはもともと特定の目的があった場合に、その目的達成のためにどれだけその手段が有効かを示す概念だったのです。ということは功利主義も、僕たちの人生とその総和である社会がなんらかの特定の目的を持った場合に、そのゴールへ最短距離で到達する道筋を選ぶべき、という思想ということになります。
しかし、僕たちの人生に周知のゴールなどあるのでしょうか。また、社会全体で見た場合にもそこに統一された目標などあるのでしょうか。「社会はこうあるべきだ」という理想を語るのは簡単です。しかし、その理想は、様々な状況に置かれるであろう個人が持つ多様なニーズを満たしきることはできないでしょう。なぜか。僕たちは全知全能ではないからです。
仮に、僕たちの人生と社会が特定の目的を持ち、しかもそれが自明ならば、ルールなど必要ないことになります。放っておいても、彼ら彼女らはその目的のために人生を費やすでしょうから、個人への強制的な干渉であるルールなど要りません。


実証主義批判

正義は「これをしてはならない」という消極的な基準によってのみ可能です。しかし、歴史的には正義は「これをなすべき」という積極的な基準によって定義されなければならないという信仰がはびこっていました。

正義の客観的基準は積極的な基準でなければならないという正反対の信念が、歴史的には多大の影響力をもってきた。古典的自由主義は客観的正義への信念に依存していた。だが、法実証主義は正義の客観的基準が存在しないことを論証するのに成功した。さらに、このことからいかなる客観的な正義の基準もありえないという誤った結論を引きだした。というのも実証主義はだいたいにおいて正義のなんらかの客観的基準の発見にたいする絶望の産物である。そうすることの見かけ上の不可能生から、それは正義の問題をすべて、意思か、利益か、情緒の問題にすぎないと結論づけた。(中略)
しかしながら、そうした実証主義者の結論が得られたのは、正義の客観的基準は積極的基準、つまりそこから正しい行動のシステム全体を導出できるはずの前提でなければならないという暗黙的ではあるが誤った仮定を通じてであった。


ケルゼンはルールを「規範」と呼び、その「規範」は「人間的意思からのみ生じる」と主張します。つまり、ありとあらゆるルールを人為的な設計によるものとするわけです。たしかに立法者は何が法であるか決定できますし、その部分を形式的に見れば法実証主義者の主張はまったく正しいです。*4
しかし、たとえば立法者が裁判所に慣習法の維持を支持した場合、はたして立法者は何が法であるかを決定したといえるのでしょうか。この場合に法の内容を立法者の意思が決定しているとするのは無理があります。つまり、人間的行為の結果であるが意図的な設計によらないルール=ノモスを、法実証主義者は無視してしまいます。
そしてノモスを無視する法学者ほど、役に立たないものはないとハイエクは言っているように思います。なぜなら彼らは政府の命令でしかないテシスこそを法として尊重してしまうからです。


あらゆる国家は法治国家であったという法の定義を受け入れるように説得されてしまった後では、かれらは「法科学の見地からすれば、ナチス政府下の法(Recht)も法(Recht)であった。それを悔むかもしれないが、それが法であったことは否定できない」と主張によってケルゼンが遡及的に証明している見解にもとづいて行為する以外に選択がなくなってしまった。*5

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