ノモスの選択としての、福祉国家の破綻――ハイエク「法と立法と自由I」

法学部生として最も感銘を受けた。
法学の講義って延々と解釈論をやるので、正直なにやってんだこいつら、と思っていまいした。たしかにそういった結論は導き出すことは可能だが、それとその結論が正当であることは別なのではないか、どのようにして正当な結論を導きだせばよいのか、その原理を考えるべきではないか、と考えていたわけです。しかし、法とは、そんなものではない、とハイエクは主張します。

1.「自然による」(physei),「しきたりによる」(nomo),「意図的な決定による」(thesei)

 多くのヨーロッパ諸国では法は二種類に分類されます。自然な(naturalis)法と、人工的な(positivus)法の2つです。しかしハイエクによれば、これは誤った二分法です。

紀元前五世紀にソフィストたちによって使われはじめたと考えられる元々のギリシャ語は「自然による」を意味するphyseiと、その対立概念で「しきたりによる」がもっとも近いnomoか「意図的な決定による」と訳されるtheseiであった。(中略)意図された区別は、独立に存在する対象と人間的行為の結果である対象との、あるいは人間的設計とは独立に生じた対象とその結果として生まれた対象との区別であったろう。これら二つの意味を区別し損ねたために、ある学者はある所与の現象を人間的行為の結果であるがゆえに人工的と評し、別の学者は同じ現象をそれが明らかに人間的設計の結果でないがゆえに自然的であるとするという状況が生じた。


 つまり、人工的か自然的かという捉え方では、「人間的行為の結果であるが人間的設計の結果ではない」現象を意識的に把握することができないのです。中世のスコラ哲学では、この現象はnaturalisの範疇とされ、自然法も「人間の意思によって意図的に形成されたものではない」とされました。
 しかし16世紀、設計主義的合理主義の時代になると、何もかもを「理性」とやらで決定しなければならないという熱情が人々を虜にします。

自然法概念は「理性の法」という概念で置き変えられ、もとの意味とはほとんど正反対の意味をもつようになった。グロティウス(Grotius)とその後継者によるこの新しい合理主義的自然法は、すべての法は理性によってつくられる、少なくとも理性によって完全に正当化されうるという考えをその実証主義的批判者と共有し、法は先験的な前提から論理的に演繹されるという仮定についてのみかれらと意見を異にしていた。他方、実証主義は、法を望ましい人間目的の達成にそれが及ぼす効果についての経験的知識を基礎にした、意図的な構築物とみなしていたのである。


 これはnomoを捨て、theseiに置きかえる試みに他なりません。なぜなら「先験的な前提」とやらは、まずもって思考によって認識可能であり、言語化可能でなければなりません。そうでないと議論の俎上に上がりません。逆に言えば、法の源泉をそのような言語化可能(knowing that)の範囲に限定し、言語化はできないけれども日々の生活の中で当たり前のように実践している行動の集積(knowing how)を排除します。つまり「しきたりによる」(nomo)法は、すべて「非合理的」な伝統でしかなく、認識可能な真理から「合理的」に導いた「意図的な設計による」(thesei)法こそが、法とされたわけです。


2.自生的秩序とつくられた秩序

 ハイエクは、「しきたりによる」(nomo)法をノモス、「意図的な設計による」(thesei)法をテシスと呼びます。ノモスとテシスを区別することでハイエクは、混迷した概念である「法」を解きほぐそうとしました。まず、ノモスについて見ていきたいと思います。
 ノモスは、ほとんど自生的秩序と同じ意味で使われています。ではハイエクが定義する〈order〉とはどういった意味なのでしょうか。

さまざまな種類の多様な諸要素が相互に密接に関係しあっているので、われわれが全体の空間的時間的なある一部分を知ることから残りの部分にかんする正確な予想、または少なくとも正しさを証明できる可能性の大きい予想をもちうる事象の状態


これが、〈order〉です。このように、一般的な「秩序」とは違って、規則性とか予測可能性と言った意味に近いため、原文の〈order〉と本論では呼びます。
 〈order〉には自生的秩序とつくられた秩序があります。自生的秩序は、特定の目的のためにつくられたものではありません。たまたま、そうした〈order〉を持っている集団が生存競争に勝ち残ったがために現存しているだけであり、当然構成員が〈order〉内のルールをすべて言語化することはできません。しかし言語化できなくても、その行動ルールは実際に守られており、それでなんの不都合もないわけです。
 対して、つくられた秩序は、組織が特定の目的のために設計するものです。通常は、ルールが明文化されています。

3.裁判官の仕事は組織の長の仕事とどう違うか

 自生的秩序とつくられた秩序を対比するだけでは、論点がよく見えてこないため、もう少し具体的な問題提起をしましょう。それは、裁判官の仕事は組織の長の仕事とどう違か、というものです。どちらもその管轄内で一定の「正しさ」を判断し、それを人々に強制するものです。たいして違わないじゃないか、という気もしますが、ここには重大な区別があります。

特定の行為のために人びとを組織化することをつねとする人にとっては、目の前に裁判官の実例がなかったならば、自分の命令に集団の構成員それぞれに割りあてられた役目とは無関係に全員に等しく適用可能なルールの形をとらせることなど、おそらく決して思いつかなかったであろう。したがって、命令権をもった権威が、裁判官が法を発達させたという意味で、つまり抽象的な用語で定義できる立場にあると思う人なら誰にでも適用可能なルールとして、法を発達させたことがあるとは考えられない。


 ハイエクによれば、裁判官は自生的秩序の一器官です。そのため、当事者が自生的秩序だと期待しているルールを適用し、人々の予測可能性を担保するが、その役割です。決して「正しさ」を判断することではありません。
対して、組織の長は、その特定の当事者にのみ適用できる「正しさ」を個別具体的に決定することができます。他の無数の構成員の予測可能性についてはどうでもいいわけです。なぜなら、組織の目的は、そのgoalを達成することであり、構成員の予測可能性を担保する〈order〉の維持ではないからです。

4.ルールと 秩序

 さて、裁判官の仕事についてもう少し掘り下げましょう。個人的な話になりますが、僕は法律学が苦手で、様々な学説の解釈論を読みながら「何やってんだこいつら」とずっと思ってきました。こんなアドホックな論理で「正しさ」を決定しまってもいいのだろうかと悩んできました。しかし、それでいいのです。裁判官は「正しさ」を判断しているのではなく、その当事者の期待を保護しているだけだからです。

時には一見したところ正しいように見えるものでも、それが合法的期待を裏切るために、そうでないと判決を下さなければならないこともあろう。


 とはいえ、紛争が起こっている以上は、当事者の双方の期待が食い違っているわけです。そこで裁判官は、保護すべき「合法的」な期待と、裏切られることを許さなければならないほかの期待とを区別しなくてはなりません。このためには各個人について許される行為の領域をはっきり定めることが手っ取り早いです。つまり、私有財産制です。
 ここで勘違いしてほしくないのは、ハイエクは何も「法の目的は財産権の保障である」と主張しているわけではないということです。むしろ法は「全体としては誰にも知られていない多くの異なった目的のための手段を提供しているにすぎない。したがって、目的の普通の意味からすれば、法は目的のための手段ではなく、たいていの目的を成功させるための一条件にすぎない」のです。法は言語のように、多様な目的達成のために役立っているだけなのです。
 目的を法の中心的特徴とみなすベンサムイェーリングは、特定の予見可能な結果(幸福や社会秩序など)の達成のために法的ルールがあると考えています。しかし、人々の欲望は多様で、かつ変化していくものなので、目的といってもその全体は誰も把握できません。目的から逆算して遵守すべきルールを考えるのは無理な話です。むしろ、ルールが遵守されるようになると、人々の予測可能性は高まるので、すでに存在している〈order〉は強化され、それ自体が望ましいのです。僕たちには、その自生的秩序がいかなる目的のために存在しているか、把握も言語化もできないわけですが。

5.ノモス(rule of just conduct)とテシス(rule of the organization of the government)

 同じ「法」と呼ばれるものですが、自生的秩序とセットのノモスは、立法府が生み出すテシスとは区別されます。

行動ルールは人が指示を遂行するようには、「遂行」、「執行」されない。(中略)行動ルールは単に許容された行為の範囲を制限するだけで、特定の行為を決定しないのが普通である。(中略)われわれが「法を遂行」するというときの「法」という言葉はいつも、ノモスではなく、人に特定のことをおこなうように指示するテシスを指す。


 ではなぜ、権威からの命令が「法」と呼ばれ、その権威は「立法府」と呼ばれるようになったのでしょうか。そもそも「立法府」は、「代議制政府の手段として生じた議会に与えられた一種の敬称」にすぎません。  議会は、「法」を制定するために召集されたのではなく、租税への同意を取り付けるために召集されました。「法」は、議会が立法するよりも古くからあったのです。議会を「立法府」と呼ぶようになったのは、人民政府の提唱者たちの恣意的な戦略でした。

そこでかれらは、伝統的意見にしたがえばその用語の狭義の法の作成者のみに属するあおの無制限なあるいは「主権」権力を、主として政府的な機関のために要求することができた。かくて、主たる活動が法によって制限されるべき種類のものである政府議会は、その命令を「法」と呼ぶことによって自分たちの望むことをなんでも命令できるようになった。


 こうして、政府という組織運営のためのルールが、人々の行動のルールと同一視されるようになりました。もはや「法」とはノモスではなく、テシスを指すようになりました。「人間的行為の結果であるが人間的設計の結果ではない」現象を意識的に把握することは困難になり、すべてをゼロベースで設計できるという幻想が隆盛しました。設計主義的合理主義の時代です。


6.憲法

 「法」がテシスを指すようになると、政府の権力は飛躍的に高まりました。いまや、もっとも中立的で自発的に営まれるはずの「法」を、政府は「執行」し、人々を強制することができるようになったのです。そこで憲法の出番です。伝統的な法律学では、憲法は人々が政府の権力を制限するためのルールです。ということは憲法こそが、「立法府」のテシスから自生的秩序を守るためのノモスということになりそうです。
 しかし、憲法が政府を名当て人としている以上、それはあくまでも組織のルールであって、正しい行動ルールではありません。それは事前に存在する「法」を施行するために、「法」の上部構造として設計された、単なる建前にすぎません。

いったん確立されると、憲法は他のルールがそこからその権威を引きだすという論理的な意味で、「第一義的」であるように見えるが、それはなおこれらの事前に存在するルールの支持を企図している。それは法と秩序を守り、他のサービスの給付装置を提供する手段をつくりだすが、法と正義がなんであるかを定義しない。


 僕はこの箇所を読んだとき、のけぞりました。最高法規たる憲法ですら、形式的なものとして分類しちゃっているのです。あんなのここ何百年かでぽっと出の人民政府がでっち上げたテシスだ、こちとら古代ギリシャから受け継いできた民法・刑法がある、ノモスなめんな、と言わんばかりです(言ってないけど)。
 さて、最後に私見として2つの論点を述べたいと思います。(1)自生的秩序は「自然主義の誤謬」か、(2)社会契約とテシス、です。


7.論点(1)自生的秩序は「自然主義の誤謬」か

7-1.つくられた秩序が「望ましい」ための要件
 「自然主義の誤謬」とは、「すでにそう在ったもの」を「それが望ましいからそう在ったのだ」と説明することです。たとえ「すでにそう在ったもの」が望ましいとしても、「さらに望ましい状態」というのも観念的には在りうるわけですし、そもそも現状を精査してみるとたいして望ましくないことが発覚するかもしれません。僕たちは自生的秩序よりも望ましい、別の秩序を新しく設計できるかもしれないのです。
 ただハイエクにしてみれば、そういう批判こそが「設計主義の誤謬」なのでしょう。そもそもいかなる秩序が望ましいかを規定するためには、まず僕たちの人生の目的を決定しなければなりません。また各人の異なる人生の目的のうち、どれを優先しどれを劣後するかの序列も決定しなければなりません。それは「万民が納得するような価値の順序付け」であり、「全ての分野における何が善くて何が悪いかのコンセンサス」であり、「社会における根本的な価値についての共通意見」となるでしょう。ハイエクはこれを〈完全な道徳律〉(ethical code)と呼び、そんなものは存在しないと主張しました。
さらにハイエクは、〈完全な道徳律〉は、教育によっても押し付けることはできないとも主張しています。世界には異なる道徳・思想・価値観を持つ多くの人間がおり、その全てが同質の道徳・思想・価値観にまとめ上げられるなんてことはありえないからです。
 仮にあなたがなんらかの「望ましさ」を実現したいのなら、それはあなたの人生や組織において実現していけばいい話で、社会全体として自生的秩序以上のものを提供することはできないし、またすべきでもないのです。



7-2.自生的秩序は効率的か
 また実証分析においても、自生的秩序を不文法として守ってきたコモンローのほうが、つくられた秩序を設計しようとした大陸法よりも効率的だったという研究があります。

法学者の側からは、Richard Posnerの古典的な研究が存在する。すなわち、彼は、かなり前に執筆された過失に関する論文の中で、コモンローの効率性について論じている。それによれば、1875年から1905年までの間のデータに従えば、制定法による対応よりは判例法による対応の方が、アドホックな対応が可能である分、効率的であったという。 *1


 成文法を制定する方が、〈order〉を明文化するため、より予測可能性を高めるように思われますが、そもそも〈order〉をすべて言語に落とし込むことは不可能なので、結局は不完全なつくられた秩序を創ることになってしまいます。たいして判例法は、その性質上アドホック(その場その場)のものですが、人々の事前の期待を保護することを条文にあてはめることよりも優先できるため、効率的足りえます。中里実は、このことを事前の視点と事後の視点どちらを重視するかの相違であると説明しています。

法制度というものは、コモンローであれ、大陸法であれ、問題が生じた後にその解決を事後的に考える(判決を通じて個別の問題に事後的に決着をつけるという点のみならず、立法を通じて既存の問題を解決する際にも、将来における波及効果をあまり考えない[=事前の視点を考えない]場合が少なくない)という傾向からなかなか自由にはなれないものであり、その点が、事前の視点を重視する経済学者から強く批判される所以でもある。
しかしながら、事前の視点に立った新たなルールの形成(すなわち、新たに形成されるルールお将来における波及効果を考えて、ルール形成を考える立場)がアドホックに行われるならば、法制度は経済学の視点から見てかなり効率的に機能しうるかもしれない。 *2

7-3.自生的秩序とつくられた秩序の区別は困難
 ただ、ありとあらゆる秩序が自発的に創られる以上、自生的秩序とつくられた秩序の区別は困難です。仮に既存の〈order〉がすべて自生的秩序だとすると、僕たちにできることはそれを粛々と保守することだけであり、ハイエクの主張はなんら政策的な提言をもたらしていないことになります。また、既存のつくられた秩序を改良することも、「設計」であり、望ましくないように思われます。おそらくテシスを廃止してノモスだけが残る状態が、理想的なのでしょう。もしくは、ノモスに上乗せされるテシスが競争原理にさらされるような、地方分権もいいかもしれません。テシス間競争が起こる、競争的地方自治を僕は支持しています。
 

8.論点(2)社会契約とテシス

8-1.社会契約の解約としての、租税回避
 テシスの本質は組織のルールであるため、解約が可能です。なぜなら、人は社会から離脱することはできませんが、組織からは離脱できるからです。つまり、社会契約は解約可能なのです。たとえば、その組織の一員でなくなる(国籍を捨てる)か、組織そのものを打倒する(革命)といった方法が考えられます。また課税逃れも、社会契約のなし崩し的解約です。
 古くは、中国の黄巣の乱がそうでした。当時の政府は5000%の塩税を人々に課税していたため、より安い塩を売る密売人が横行し、彼らに富と権力が集中することになりました。塩の密売人は武装して、自分たちの経済圏を自治し、ついには政府すら倒してしまいます。これは人々が、政府という組織との契約を解除したとも理解できます。つまり、料金(税金)が高い割にはたいしたサービス(治安維持などの公共財)も提供できないクズみたいな会社とは見切りをつけて、新しい会社と契約を始めたというわけです。このようにpublic governmentの租税政策をきっかけにしてprivate governmentが権力を握り、新しいテシスが妥当するようになったという歴史は日本にもあります。
 645年の大化の改新以降、京都の政府は公地公民をかかげ、土地の所有権をすべて取得しました。そして農民は政府の土地を使って耕作し、租庸調を政府に納めました。また農民が新しく開墾した土地についても6年しか所有権を認めませんでした。しかし、これはあまりにも農民にとって不利な取引だったため、課税逃れが横行することになります。そこで政府は、徐々に農民の所有権を認めることにします。743年の墾田永年私財法では、ついに新しく開墾した土地について完全な所有権が認められました。
 しかし、それでも課税率が高すぎたためか、農民はpublic governmentではなくprivate governmentと契約するようになります。この時代、貴族や僧侶には課税されていなかったので、農民は自分の土地を彼らに寄付し、税金を払う代わりに賃料を払うようになったのです。おそらく、その方が農民にとってお得だったのでしょう。支払う額が安かったのか、対価として受け取るサービス(治安維持・防衛)が良質だったのかはわかりませんが。
 ともあれ、貴族や僧侶の荘園における統治の方が成功し、1192年には鎌倉に強力なprivate governmentができました。これが鎌倉幕府です。 *3



8-2.ノモスの選択としての、福祉国家の破綻
 最後に、視点を現在の日本に向けてみましょう。高齢化に伴う社会保障費の増大により、国と地方を合わせた公債の残高は1000兆円を超えました。これに対して個人の金融資産が1400兆円ですから、市場の持つ国債の買い余力は400兆円ほどしかなく、毎年赤字国債が40兆円ほど続けば、10年ほどで国債の買い手がいなくなってしまいます。もちろん海外投資家に買ってもらえればいいんですが、こんなデフォルト寸前の債券なんて誰も買ってくれないでしょうし、そうした予想を織り込んで、ここ数年ではやばやと国債の買い手がつかなくなるかもしれません。そうすると日銀の直接引受・ハイパーインフレのコンボが決めるしかないので、事実上デフォルトということになります。 *4
 この財政危機を前にしてすぐにでも増税すべきだと財務省は主張していますが、人々は増税に乗り気ではありません。増税せずに景気回復による税収アップでなんとかしようとしているのかもしれませんが、ひとつの理由として、こんなクソみたいな経営しかしてない会社にこれ以上お金を突っ込みたくないと思っているのかもしれません。この増税に消極的な姿勢は、もうこんなpublic governmentなんて淘汰されてしまえばいい、という願望の現れではないでしょうか。
 福祉国家が破綻した後ならば、さすがにpublic governmentも抜本的な改革をせざるをえないでしょうし、それにより効率的な制度が始まれば、それはそれで望ましいです。あるいはprivate governmentが効率的な自治を始めて、人々がそちらにつくことになるかもしれません。どちらにせよ、現状のテシスは長続きしないでしょうし、むしろそれは必然な気がします。だからたとえpublic governmentが資金繰りに失敗して淘汰されても、「―――それがノモスの選択か」と寂しそうに呟き、「あぁ、わかってる。あいつなりの考えだな。ラ・ヨダソウ・スティアーナ」と締めくくればいいんじゃないですかね。

*1:中里実「法制度の効率性とソフトロー」中山信弘先生還暦記念論文集収録 558p

*2:中里実「法制度の効率性とソフトロー」中山信弘先生還暦記念論文集収録559p 

*3:Minoru Nakazato and J. Mark Ramseyer, “The Tax Incentives That Destroyed the Government: An Economic Analysis of Japanese Fiscal Policy, 645-1192”  東京大学社会科学研究所「社会科学研究」第51巻第3号3-12p(2000) 収録

*4:小黒一正「2020年、日本が破綻する日」