権利のための闘争 / イェーリング

「権利のための闘争は権利者の自分自身に対する義務である。と同時に、権利のための闘争は国家共同体に対する義務である」。
えーと、ちょっと何言ってるかわかんないです。権利ってことは「権利を行使しない自由」も含めて権利なんじゃないの? 権利を主張しなくてはいけない義務って観念できるの? 
……そう考えていた時期が僕にもありました。
イェーリングは国家の領域侵害と、個人の権利侵害を同等に考えています。たとえばA国が国境線沿いの住民が一人も住んでいない不毛の土地・甲土地をB国に占領されたとします。A国にとっては経済的な損害は全くありません。しかし、A国はB国に土地の所有権を主張し、B国が立ち退かなかったら、武力行使するでしょう。それで兵士の血がどれだけ流れようと、戦費にどれだけ血税を費やそうと、闘うでしょう。
なぜか。舐められたら終わりだからです。自分の領土を気前よく占領させてくれるようなお人よし国家は、その全土を侵略されて消滅するのが世の常です。だから、国家はたとえ経済的損害が大したことなくても、死に物狂いで主権を主張するのです。
これは個人でも同じです。優柔不断なところに付け込んで舐めてかかってくるような連中には、断固たる態度を取らなければいけない。そうしないと、ついには身ぐるみ剥がされて路頭に迷うのです。それだけは嫌だ。だから闘うのです。

私が訴訟を億劫がるだろう、不精で怠惰で優柔不断な態度を取るだろうという思惑で私の正当な権利を奪おうとする債務者に対しては、どんなに高くつくとしても私の権利を追求すべきであり、追求しなければならない。それをしなければ、私はその権利を失うばかりでなく、およそ権利一般を放棄することになってしまう。

国家共同体に対する義務

ドイツ語では権利も法もレヒト(Recht)という言葉で表わされています。とすると、権利のための闘争とは、法のための闘争でもあります。つまり権利を侵害してくる無法者をとっちめることは、国家が定めた法律がちゃんと有効であることを身をもって体現することなのです。

権利者は自分の権利を守ることによって同時に法律を守り、法律を守ることによって同時に国家共同体の不可欠の秩序を守るのだと言えるとすれば、権利者は国家共同体に対する義務として権利を守らなければならぬ

権利は何によって根拠づけられるのか

イェーリングの面白いところは、権利の根拠を倫理的生存に求める点にあります。つまり、権利を侵害されると「あ、おれ今舐められてるなー」と「苦痛」を感じるわけで、この「苦痛」は経済的な損得とは無縁のものです。経済的な損害を与えたのだから、その分だけ賠償してもらう権利はあるよね、というのは、イェーリングに言わせれば「権利侵害を、もっぱら物質的価値の尺度によって図っている。これは、無趣味で低俗な物質主義が最も徹底した形をとったものである。」ということになります。
しかしイェーリングが「権利のための闘争をすべし」という義務によって達成したい目標は、個人の生存や社会秩序です。こういった目的というのは、なにもイェーリング的義務感によって達成されるだけでなく、それを必要とする利己的な個人の欲望によっても達成されると思うんですよね。なにも好きこのんで権利を放棄したい人ってのは少ないだろうし、社会秩序を崩壊させたい無法者なんて誰も許容しないだろうし。
だから僕としては「権利のための闘争」は義務ではないと考えます。つまり「権利のために闘わないヤツは舐められて不利益被る可能性があるよ。だから君には権利のために闘う権利がある。でも舐められる自由というのもまたあるので、自己の裁量の下に自由にやってみたらいい」という立場です。滅びる自由も、あるんだよ。