個人主義と経済秩序 / ハイエク

これは本当にいい本ですよ。古典の名に値する。とくに収録論文の「社会科学にとっての事実」は文系なら全員読むべき。
ハイエクによれば知識というものは「存在する」ものではありません。むしろ、知識は個々の人間によって「意思決定される」ものです。これだけだと意味が分からないと思うので、まず知識の前提である「事実」について考えてみましょう。僕たちは「事実」をどのように認識しているのでしょうか。

歴史上の「事実」というとき、われわれはそれによってなにを意味するのであろうか。人間の歴史にかかわる事実は、われわれにとって物理的な事実として意義があるのだろうか、それともなにか他の意味において意義があるのであろうか。ウォータールーの戦い、ルイ十四世治下のフランス政府、もしくは封建制度とはどのような種類の事柄であるのか。(中略)
ナポレオン親衛隊の展開の末端から少し離れたところで自分の畑を耕していた人はウォータールーの戦いの一部分であったのであろうか。あるいはまたバスティーユの襲撃のニュースを聞いて、かれのかぎたばこ入れを落とした騎士はフランス革命の一部分であったのであろうか。
このような問いを追究してゆくと、少なくとも一つのことが明らかになる。それは、歴史的事実なるものを空間的、時間的な同位性によって定義することはできないということである。*1


つまり「事実」と呼ばれるものは、現実としてありのままに与えられているものではなく、僕たちが現実を恣意的に再構築したモデルなのです。このモデルを共有している者同士では、あたかもそれは客観的な「事実」であるかのように思えます。しかし、真実は「そのような方法で世界を分類している人間が複数いる」というだけなのです。
そうすると「事実」というものは、その内容である物理的現象がどうであるかよりも、そのようにして「事実」を見出す人間の信念や意図がどのようなものかが重要になってきます。

これらすべての事物はそれらのもつ「現実の」特性によって定義されるのではなく、人びとがそれらについてもつ見解によって定義されるのである。要するに社会科学においては、事物とは人びとがそうだと思うものなのである。誰かがそうだと思うならば、そしてそう思うからこそ、貨幣は貨幣、言葉は言葉、化粧品は化粧品なのである。*2

僕たちは「事実」をどのように分類すべきなのか

さて、ここまではある意味当たり前の話です。「事実」は個人の頭の中で組み立てられるモデルでしかない。よろしい。ではその「事実」の分類は、いかにして有用なモデル―――知識―――へと至ることができるのか。これが問題です。

  • 設計主義・合理主義

一つの考え方は、「ものすごく頭のいい人間が科学的に世界を解釈し、その「事実」の分類をみんなが使えばいい」というものです。最高に合理的な頭脳が、単一の知識を発見し、それを共有することで世界と折り合いつけていこう、というわけです。こうした考えを持つ人たちは「進歩的」とか「合理主義者」とか呼ばれました。

もう一つの考え方は「何が最適な世界の解釈なのかは誰にもわからない。なぜなら僕たちはたいして頭が良くないからだ。だから一人一人が好き勝手に「事実」を分類していき、世界と折り合いのつくモデルが生き残るのを待とう」というものです。これがハイエクの考えです。

実際に利用される知識の多くは、決してこのような既成の形で「存在する」わけではない。ほとんどの知識は思考方法にあるのであって、それが個々の技術者をして、新しいタイプの環境に直面するや否や新しい解決を素早く見いだすことを可能ならしめているのである。*3


純粋に技術的な問題なら一人の天才がいれば事足りるかもしれませんが、これが経済問題になると解を一人の人間で考えるのは不可能です。たとえば「教師よりも医師のほうが必要性は高いが、医師を育成するコストは教師の3倍のとき、社会的な最適な教師と医師の配分はどうなるか」という状況を考えてください。「医師と教師の必要性の比率」という知識は、僕たち自身の「医師をどれだけ必要としているか」・「教師についてはどうか」という需要によってしか見出すことはできません。

つまり知識とは、僕たちの頭の中にある「事実」の分類モデルが、たまたま世界や社会をうまく回すケースなのです。僕たちが何が正解かわからないながらも、こうしたらいいんじゃないかと仮説を立て、その意思決定に基づいて行動した結果、事後的に知識は発見されるのです。だからこそハイエクは、誰もが自分勝手に「事実」を分類でき、知識の発見へと開かれている状態―――自由―――を支持したのです。

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