戦争は変わった――P・W・シンガー「ロボット兵士の戦争」

「戦争は、人びとがほかの人びとを殺すときに始まるのではない。報復として自分が殺されるリスクを冒す時点で始まるのだ」 *1
では、ラスベガス近郊にいながら遠隔操作でアフガン上空を小型飛行機で索敵する兵士は、はたして戦争に参加しているのだろうか? ロボットが人間の兵士の役割を代替することで、今、戦場は劇的に変わろうとしている。そして戦争の変容は、社会の変容をもたらす。本書は、他にはないスリリングな切り口で戦争を論じた、最高に面白い一冊だ。
たとえば、カントは民主制は戦争を抑制すると論じたが、その根拠は「ふつうの市民なら自分が死ぬのが怖くて戦場になんか行きたくない」というものだった。しかし、朝に子どもを保育園に送り、昼は軍の施設で遠い戦場のロボットを遠隔操縦し、夜はまた家に帰ってきてアメフトの試合を家族と観る、そんな兵士が多くなってきている。兵士が死ぬリスクが減っていけば、たとえ民主制といえでも戦争を抑止するのは難しいだろう。
さらに、このように死のリスクのない戦争は、卑怯なロボット使いによる勇敢な戦士の虐殺として相手国では捉えられ、かえって市民の反米化を招くというおそれもある。*2
また、このような代償なき戦争は、たとえ正しい戦争であっても倫理性を損なうかもしれない。かつての戦争ならば、自分たち市民の血と肉を賭けてでも、成し遂げなければならない大義が必要であった。また、そのような理念の共有のために国民的議論があった。しかし、部隊がリスクから無縁ならば、武力行使の決定は、橋の通行料の値上げ程度の、単なる政策の一部となってしまう。*3

軍事力の世界的再分配

過去に国家の台頭につながった要因のひとつは、おおぜいの兵士を動員し組織して、民族国家以外の統治形態(君主領、都市国家、民族集団など)を圧倒できることだった。そうした常設の軍隊を支える必要から、国家統治の官僚機構と税制をつくる必要が生じた。
(中略)
今では、国家以外の勢力が権力も物的・人的資源も意思決定の権限も有するケースが増えている。
(中略)
ヒズボラが拠点としているレバノンなど、多くの国では、軍と警察は国内で起きていることを民兵組織や軍閥ほどコントロールできないのが実情だ。
(中略)

無人システムの使用が増えていることは、二十一世紀に進行している、より大きな政治現象と切り離せない。戦争はもう、決まった戦場で、民間から徴兵されたおおぜいの兵士が戦うものではなくなっている。国家だけが行うものでもなくなっている。いってみれば、戦争と政治というふたつの最も長く続いた独占の連鎖崩壊が起きているのだ。国家はどの集団が戦争に行けるかについては約四百年間、これらの戦争で誰が戦えるかについては約五千年間にわたって、権利を独占してきたが、この独占を同時に失った時期として、後世の歴史家は現在を振り返ることになるかもしれない。*4

戦争が「国民」でも、ましてや「人間」ですらないロボットによって行われる世界、それは中世の貴族たちが陣取りゲーム感覚で戦争に興じていた時代に近いのかもしれない。自らの命を賭けてまで戦闘に勝とうとする兵士ではなく、雇われただけの傭兵によって行われた中世の戦争は、はっきり言ってぐだぐだの儀式みたいなものだった。自らの血と肉を賭けた生身の人間が、もし戦場からいなくなってしまえば、もはや中世の戦争以上にゲーム的なものとなるかもしれない。
もっともしばらくの間は、技術の進んだアメリカのロボット兵士VS紛争地帯の生身の戦士といった構造が続く。あるいは先進国の都市部においても途上国の操縦者に遠隔操作されたセスナが爆撃を繰り返す、戦場がグローバルに拡大した混沌の世界になるかもしれない。

*1:624p、軍事史家マーチン・ファン・クレフェルト

*2:449p

*3:468p

*4:385p