首相支配 / 竹中治堅

近年まれに見るリーダーシップを発揮した小泉純一郎の政治を、本書では首相に権限が集中する制度によるものだと結論づけている。たしかに小選挙区制が導入されて派閥の影響力が低下したし、小泉政権では経済財政諮問会議がうまく機能して首相に主導権があった。しかし、この本が書かれた2006年以降、いまだかつて小泉のようなリーダーシップを発揮できた首相はいない。残念ながら制度改革が首相支配を生んだというよりも、たまたま小泉が例外だったと考えたほうがいいだろう。竹中の提唱した「2001年体制」なるものは結局のところ「小泉体制」にすぎない。やはり「小泉は強かった」。
また竹中は首相の権力が高まると同時に参議院の影響力も高まったと指摘する。参議院には首相の解散権が及ばないからだ。この参議院が、ともすればポピュリズムに走りがちな首相支配をいい具合にブレーキをかけるという評価もできなくはない。しかし、小泉以降のリーダーシップに欠ける首相にとっては、この参議院のブレーキはききすぎているように思う。衆議院参議院の多数派が異なるねじれ国会では、まったく身動きがとれなくなってしまうからだ。そこで首相支配を実現し、政治に機動力をもたせるために、参議院を廃止してしまえばいいという意見が出てくる。
そもそも参議院は何のために要るのだろうか。結局は、政策決定に時間をかけるため、ということだろう。一院制よりも二院制のほうが、意思決定のプロセスが煩雑なため、最終的な決断には強い合意がともなうこととなる。
また、簡単には動かないということはそれだけ間違った判断を下すことも少ないということであり、安定性がある。何が正しいかも分からない問題の場合、やみくもにリスクを取るよりも何もしないほうがかえって安全なときもあるのだ。一方で、意思決定が迅速にできないということは、緊急性のある問題に対処できないという意味で危険だ。
だが、こんな議論を続けても無駄である。均質な《私たち》にとって参議院は要るか要らないかを議論しても結論は出ない。問題は、異なる利害を持っている複数の《私》たちが、それぞれ参議院にどのような役割を期待しているかである。《私》たちはどんな利害を軸に対立しているのだろうか。その中で《私たち》として団結できるポイントはあるのだろうか。いささか強引ながら《私》たちを4つのタイプに分類してみよう。

参議院要る 参議院要らない
保守派  A C
改革派  B D

Aは、既得権益を持っているので現状を変えられると困る人たちだ。現状に満足しているので、改革に伴うコストを割に合わないと考えている。Bは、改革は望むけど一院制への移行のコストのほうが高いと考える人たちか、参議院があることでむしろ改革が進むと考える人たちだ。CとDは、参議院が無駄な政治プロセスだと考える人たちだ。政治プロセスの迅速化によるリーダーシップの増大を期待している。
私の立場はDなのだが、Aに転向する可能性もある。とりあえず舵をきったほうが、ねじれ国会のままぐだぐだするリスクを回避できてマシだとは思うが、権力の集中それ自体は不安だ。右翼化の兆しが見られるこの現状で、政治がリーダーシップをとって「民意」を反映させることはかえって危険かもしれない。多数派の意見は必ずしも最適ではないのだ。
たとえば「希望は、戦争」と語る赤木智弘の主張は衝撃であった。赤木はこう述べる。

31歳の私にとって、自分がフリーターであるという現状は、耐えがたい屈辱である。(中略)私のような経済弱者は、窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性のある社会を求めているのだ。それはとても現実的な、そして人間として当然の欲求だろう。(中略)社会に出た時期が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。

たしかに戦争は、経済的な椅子取りゲームを根本的にひっくり返す改革である。椅子に座っている者が死ねば、その分のポストは脱落者にとってチャンスとなる。たとえ自分が死んだとしても、その死は椅子取りゲームの脱落者としての死ではなく、お国のための尊い犠牲として讃えられる。私は改革派を自称しているが、赤木にとってはあの丸山眞男の後輩であり、打倒すべき保守派なのかもしれない。