小泉政権 / 内山融

かつて音楽が鳴り響いていた。富の椅子取りゲームの中でみなが踊っていた。自民党システムのもとで「鉄のトライアングル」を築けば莫大な利権を確保できた。大企業の正社員になりさえすれば長期雇用が保証され安定した未来が約束されていた。こうした椅子取りゲームは今も変わらない。しかし、かつては全体のパイが拡大していたので、椅子取りゲームはパイの続く限り行われた。何度椅子取りゲームをやっても椅子の数は増え続けたので、音楽は鳴り続けた。中には脱落した者も出たが給料は上がり続けていたので不満は出なかった。
しかし、もはや音楽は鳴り止んでしまった。パイの成長率は停滞し始めた。おいしいポストが増える見込みはもはやない。すでに椅子に座れた人たちは必死に椅子にしがみつきだした。それを見て、脱落者たちはもう挽回するチャンスはないのではないかと絶望しはじめた。脱落者たちの希望はもう一度音楽がかかることである。固定された椅子を再び流動化させることである。
彼らの夢を体現してくれたのが、小泉政権構造改革であった。既得権益にがんじがらめになったシステムを打破し、市場原理による自由な競争を目指す小泉の理念は熱烈に支持された。郵政民営化はその最大の成果だろう。だが構造改革は完璧だったわけではない。道路族には逃げ切られた。彼らの利権(道路を建設する計画)は確保されたままだ。公務員制度改革も着手できなかった。この改革はその後の政権のリーダーシップの無さゆえかすでに骨抜きになっている。
選挙制度にも改革が必要だろう。世襲制限を設けるべきと民主党は主張しているが、問題は世襲そのものではなく、世襲議員が有利な制度設計のほうである。当選したら職を辞さないといけないという規制があるおかげで、一般人が政治家になるには大きなリスクが伴う。これではすでに支持基盤がある世襲議員か、食うに困らないお金持ちぐらいしか立候補したくないだろう。規制のために、アウトサイダーを締め出され、椅子取りゲームはすでに椅子に座った人の身内でやりとりされている。
小泉の新自由主義が悪いのではない。*1 結局のところ、規制緩和によって競争を促進させることでしか、全体のパイを拡大する方法は無いのだ。いくらそれが既得権益をおびやかすものだとしても、全体にとってよいことならやるべきである。だから問題は小泉の新自由主義がまだまだ中途半端だということだ。改革はいまだ不十分なのである。
だが、すでに椅子に座れた人たちにとっては小泉の構造改革はうっとうしい。彼ら保守派にとっての幸福は二度と椅子取りゲームの音楽が鳴らないことなのだ。だから「小泉のせいで格差が拡大した」と改革を徹底的にけなす。経済学的に正しい主張よりも、彼らの主張のほうが直感的にわかりやすいので、世間では保守派のほうが良識ある立場とされるだろう。逆に「ありとあらゆる規制を撤廃しろ」という自由主義者は、悪逆非道の金の亡者とみなされるのが落ちだろう。
ぶっちゃけていうと、私もほぼ確実に正規労働者になるので保守派と利害は一致する。彼らになびいて「フリーターとか結局自己責任でしょ」と言ってしまってもいいのだ。無理して全体最適を追及する必要はない。自分さえ良ければそれでいいのか、という批判もあるだろうが、しょせん人間なぞそんなものだ。
また私は機会平等がそんなに善いものとは思えないのだ。音楽が鳴って公平な競争をするのはそんなに善いことなのだろうか。「たまたま俺は貧乏な家に生まれただけ」「たまたま俺は就職氷河期にあっただけ」そうした言い訳できる分、機会平等がなければ「かわいそうな弱者」を演じることができる。自分の人生がダメなのは俺のせいじゃないと、誰かに責任を転嫁できる。しかし完全に機会平等が保障されれば、脱落者はもう言い訳はできない。その脱落は無能の正当な結果なのだ。そう考えると機会平等のほうが、より残酷なのではないだろうか。
だが31歳のフリーターが「希望は、戦争」と語った現状は危険である。椅子取りゲームをひっくり返すためには戦争さえも辞さない脱落者の絶望の深さを、ハト派は真摯に受け止めるべきだ。いくら「小さな政府」が最適解でも、そこに至る過程で社会の不満が爆発して戦争になんてことになったら最悪である。私は「小さな政府」が好きな自由主義者なのだが、ヘタレなハト派でもあるので「大きな政府、大きな福祉」を求めることになるかもしれない。だからこそ、「小さな政府、大きな福祉」という方向性をもつベーシック・インカムには淡い希望を抱いているのだが。

*1:この言葉は「弱者にやさしくない」程度の意味しか持たないレッテルにすぎないので、あまり使いたくないのだが、通りがいいので使用する。本当は経済的自由主義と呼んだ方がいいだろう