監獄の誕生―監視と処罰 / ミシェル・フーコー

「自分の頭頂部が天から吊り上げられているようイメージしてください」。 社会人がマナー研修でよく聞く言葉だろう。姿勢をよくするためには、背筋を伸ばし、筋力を使って胸を張り、顎を引かなくてならない。そのような一連の制御を自然にこなすために、かくのごときフレーズが使われる。しかし、なぜ僕たちは自由になるはずの身体を、そのように制御しなくてはならないのだろうか。
講師曰く、「マナーとは、自己満足の対極にある概念です。たとえ、そのだらしない姿勢があなたを心地よくさせても、他人は不快に思うかもしれないでしょう」と。
つまり、僕たちは他人の快楽のために、自己を制御しなくてはならないのだ。他者の目に不愉快なものが映らないように、自分の身体を部品のように使用しなくてはならないのだ。フーコーはそのような規律・訓練のはじまりを、軍隊に見出す。

一つの身体は、人々が配置し動かし他の身体に連結しうる一つの要素となる。その身体の豪胆さや力とは、その身体の特徴である主要な変化項目、ではもはやない、それは身体が占める位置、身体がおおう間隔、身体が位置移動をおこなう場合の元にある規則正しさ・りっぱな秩序である。部隊に属する兵卒は、或る勇気や或る名誉の持主である以前に、とりわけ、動的な空間部分なのである。*1


中世のころは、戦場における武力は集団的なものではなく個人的なものだった。勇者や武人が戦局を左右する環境だった。しかし、この軍隊管理はあまりにも個人のスキルに依存している。よって、コンスタントに戦いに勝つためには、部隊に属するあらゆる人間を一人前の兵士へと教育し、そのような兵士の群れが一つの戦力として機能する仕組みをつくる必要があった。実際に、平凡な兵士の群れが、昔堅気の武人を圧倒したのが、近代の戦争であった。
そして平凡な兵士に求められたのは勇気ではなく、部隊の歯車となることだった。

命令は説明の必要も、さらには言葉で表す必要さえなく、所定の行動へのきっかけを与えねばならないが、それで充分である。規律・訓練を加える師から、それに服従する者への関係は信号の表示である。つまり重要なのは命令の理解ではなく、信号の知覚であり、前もって設定された多少の差はあれ人為的な或る記号体系(=準則)にのっとって即座に信号に反応することである。*2

歯車に思考は必要ない。だから理解もなくていい。ただ所定の反応を最高のスピードで示し、集団を効率よく機能させてくれれば、それでいい。

軍事《一般》―――かつて《武人(オム・ド・ゲール)》の特色であったものとはきわめて異質な、軍事制度や軍人(ミリテール)という人物や軍事学―――がこの時代に特定化されるのは、一方では戦争と戦火の響きとのあいだの、他方では秩序と平和の順々な沈黙とのあいだの、それぞれの交叉点においてである。完璧な理想社会の夢想をば、好んで思想史家たちは十八世紀の哲学者たちと法学者たちに帰しているが、他方さらに、現実には社会の軍事上の夢も存在したのである。*3


軍人の誕生は、武人の終焉でもあった。そしてそのような軍人的な特徴が、社会のいたるところで見られるようになった。それは会社であったり、病院であったり、学校であった。
規律・訓練の主体(subject)は、一人一人の身体であったが、彼らは同時に見えないルールの臣民(subject)でもあった。彼らは具体的な個人の奴隷ではなかったが、あたかも自分を奴隷のように酷使し、集団の秩序に貢献していた。まるでその姿は、天が一人一人の身体を制御していかのように見えたであろう。そのような仮想の天と絶えず向き合い、おのれを制御する者―――彼こそが、近代以降のsubjectである。


誰が誰を規律・訓練するのか

さて、このような規律・訓練はいったいどのようにして始まったのだろうか。それは脱中心的な、偏在する構造ではあり、不可視のシステムである。だが、法律や行政制度のかたちで可視化されてもいる。

裁判所では社会全体がその成員のひとりを裁くのではなく、社会秩序をつかさどる或る社会的範疇が無秩序に身をささげる別の社会的範疇を罰するのである。*4

たとえば1840年8月のフランスにおいては、放浪者は監獄にぶちこまれるべき犯罪者だった。特定の住所を持たず、日雇いのバイトで食いつないでいるフリーターのような存在は、異常だったのだ。普通だったらそうした労働者がどこかの親方の職場に住み込みで丁稚奉公し、規律・訓練されるはずだった。
とはいえ、反規律・訓練(だらしなさ)を違法だと判断することには現在の僕たちにとってはなじみがない考えだ。放浪する自由だって認めてもいいんじゃないか、と思うわけである。
だが、近代社会はそれを許さなかった。従順で有能な身体をつくりあげるために学校が用意され、また野に放たれた、だらしない身体を回収して矯正するために監獄が作られた。「いわば人間の行動についての技術者、つまり行為についての技師、個人性についての整形外科医」が大量に現れた。*5
そしてそのようなシステムの中で、法律(君主の、臣民に対する命令)は徐々にその役目を変える。最初は、反規律・訓練を君主の敵として処罰してきたが、しだいにそれは君主という具体的個人に敵対する者というよりはむしろ、端的に人々の評価基準の中で「異常」の烙印を押される者となった。そして恐ろしいことに、その人々の中には、烙印を押される当人ですら、含まれているのである。

それはもはや過ち(=罪)ではなく、共有的な利害への侵犯でももはやなく、逸脱と異常であり、それらこそが学校や裁判所や保護施設や監獄につきまとう。それらこそは監禁的なるものが戦術の方向へ一般化する機能を、意味の方向へ一般化する。君主の敵対者(十九世紀はじめ以前の犯罪者像)、のちには社会への敵は、無秩序・犯罪・狂気などの多様な危険をはらむ偏向者へと変貌したわけである。*6

*1:166p

*2:168p

*3:170p

*4:274p

*5:295p

*6:299p