哲学者・山脇直司氏への公開書簡2――リバタリアンは公共哲学の夢を見るか?

山脇氏からの反駁がありました。それぞれ
(1)君の考えは経済的自由主義でない
(2)公共哲学を切り捨てているのはリバタリアニズムの方だ
(3)公共哲学は余裕ある個人のものでなく、市民のものだ、です。

論点1:経済的自由主義と公共哲学は両立するか

ご批判の第一点は、貴方が支持する経済的自由主義を拙著が安易に切り捨てているという点にあると思います。しかし、貴方の「利己的な個人が自由に活動することで、結果的に経済的な富が生み出される。よって自由な秩序こそが望ましい。富の再分配は国家によって達成されるし、社会的な価値の創造については、個人や私的組織が自己の裁量のもとで実行されている」という考えの後半部分には、経済的自由主義とは違う思想が入り込んでいて当惑します。「富の再分配を国家が達成する」という考えが果たして経済的自由主義リバタリアニズムと両立するでしょうか。私はしないと思います。ですから、貴方が支持する立場が経済的自由主義とみなすことは困難です。

山脇氏は経済的自由主義を富の再分配を否定する立場と捉えています。が、僕の理解では経済的自由主義は最低限の富の再分配なら肯定します。現に、経済的自由主義に沿って書かれたミルトン・フリードマン「資本主義と自由」では負の所得税の導入を提案しています。
もちろん、日本に棲息している野生の経済的自由主義者は富の再分配を否定しているのかもしれませんし、そういう人たちこそが真の経済的自由主義者だとするのが日本での通説なのかもしれません。
ただ、ミルトン・フリードマンと公共哲学は両立しうる、ということだけは共通認識にできるのではないでしょうか。「自由な秩序 + 国家による富の再分配」という考え自体には反論がないようですし。


論点2:リバタリアニズムと公共哲学は両立するか

次に、公共哲学がリバタリアニズムを切り捨てているのではなく、公益や分配的正義や協働や民主主義などの公共価値に冷淡なリバタリアニズムの方が公共哲学を切り捨てていると私は考えます。そうでなければ、考え直すことにやぶさかではありません。

たしかにリバタリアニズムは、公共価値について語りません。しかしそれは公共価値について冷淡だからではなく、公共価値については私的な場で実践すべきで、公共的な場で決定することはできないと考えているからです。
たとえどんなに公共的な人間でも、ありとあらゆる個人を納得させることはできないでしょう。それだけ、個人の価値観や嗜好は多様だからです。ホームレスの支援が大事なのか、海辺のゴミ拾いが大事なのか、経済的富を増やしてばんばん納税することが大事なのか―――公共価値にもさまざまなベクトルがあり、それらの一元的な序列を作ることはできません。
ならば、「何が望ましいか」を社会全体で決定せずに、一人一人に「何が望ましいか」を決定させるべきです。そして公共価値の実現を、個人の裁量に任せるべきでしょう。リバタリアンだからといって、募金しなかったり納税しなかったり選挙をさぼったり家族を泣かせたりするとは限りません。リバタリアンだって公共哲学の夢を見るのです。
百歩譲って「リバタリアニズムの方が公共哲学を切り捨てている」としても、そうしたリバタリアニズムを丸めこまなくてはいけないのは、公共哲学のほうです。リバタリアンは自由の旗を掲げてしまった以上、各人の自由を尊重することこそが使命となるので、公共価値の追求を各人の裁量に任すほかないわけです。もし公共価値を実践するとしても、それを他人に強制することなく、己の意思決定の下で黙々とやるほかないわけです。
一方で公共哲学の旗を掲げた人は、その旗印を裏切るべきではありません。たとえ「公共的でない」連中が跋扈しようとも、そういった連中を丸めこんでいく使命を負っているはずです。なぜなら、そういった実践こそが「公共的」だからです。
というわけで、リバタリアニズムと公共哲学が両立しないことの事実上の負担は、公共哲学の側が負っている、というのが僕の意見です。


論点3:公共哲学は余裕がないと語れないものか

最後の最も重要な点について一言。公共哲学は「善き公正な社会のヴィジョンを求めつつ、現下の緊急な公共問題について市民と共に論考する学問」ですので、「余裕ができて初めて語れる」ような学問には属しません。

僕の定義では、「市民として活動できる人=余裕がある個人」です。実際にシンポジウムに参加する時間をとったりするのは、食うに困って土日返上で働かなくてはならない労働者には厳しいでしょう。だから公共哲学に限らず、学問的なこと一般は余裕ができて初めて語れるものだと理解しています。
ただ、「どんなに忙しくても市民は市民」という人もいるでしょうし、「余裕があってもまったく公共性に興味がない」という人もいるので、「余裕ができて初めて(公共哲学を)語れる」というのは、やや誤った意見だと思います。この点については申し訳ありません。


追記:議論の結末

下記の山脇さんのコメントに対する、僕の反論を、「哲学者・山脇直司 VS リバタリアン ―― 誰が公共哲学をファイナンスするのか」としてトゥギャりました。 結論から言えば、上記の論点2について同意してくれたようなので、僕としてはこれ以上言うことはありません。
また論点1については、ミルトン・フリードマンと公共哲学は両立するようなので、これ以上議論する実益がなさそうです。僕としてはミルトン・フリードマンは経済的自由主義の旗手として理解していたのですが、まあ、どうでもいいです。

そもそもdaen0_0さんの批判の中心は「公共哲学は利己的なリバタリアンをもまきこんでいくような説得力のあるプランを提示できるのか?」という点にあったはずですが、本書はもちろんのこと、山脇さんの回答もこの批判に正面から答えてはいません。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/hiraokakimihiko/view/20110619/1308483966

ですから、この平岡氏の意見については、「ミルトン・フリードマンを許容する公共哲学なら、リバタリアンとしても賛同しうる」ということになります。