文学「まだだ、まだ終わらんよ」

グレッグ・イーガン「ディアスポラ」のエントリを書き上げた後は素朴にもこう思ったものです。文学終わったな、と。たとえどんなに素晴らしい小説も、人生を変えるような思想も、しょせんは価値基準のメタ構造の階層を一歩昇るだけです。《真理》という名のニンジンを鼻先にくくりつけられた馬のように、がむしゃらに前へ前へと進んでいるだけです。それも、同じところをぐるぐる回っていることに気づかないほど盲目的に。しかしこの考え方は間違っています。
その理由は簡単です。人間はヤチマほど自由ではないのです。環境(観境)を自由にコントロールする力もなければ、不死の生命でもありません。ソフトウェア化した意識ならば、自分の価値観を自由に調節できますが、肉体人には不可能です。人間であることには、さまざまな限界がついてまわります。
私たち人間は、どんなに価値基準の相対化をはかり、メタ構造をクリアに把握しようとも、銃声一発でその意識ごと断ち切られてしまう脆弱な存在なのです。いや、銃なんて野蛮なものを使わずとも、100年かそこらで勝手に朽ち果てる儚いプログラムです。さらに言えば、1000万円を目の前に積まれれば私を含めたいていの人間が黙るでしょう。仕事をクビにするぞと脅されれば、嫌でも意見を変えるでしょう。金がないと生きていけない社会的動物にとって、経済は絶対的なルールなのです。
価値基準のメタ構造はしょせん形而上学的なお遊びの産物です。形而下の政治ゲーム・経済ゲームを前にしては、そんなメタゲームは微々たる影響しかありません。下部構造(経済的・物質的なもの)が上部構造(イデオロギー・精神的なもの)を決定付けるとしたのはマルクスですが、現実は今まさにこのように動いています。
さて、この人生ゲームの中で小説にできることはなんでしょうか。「文学」コミュニティの中で、ランキング上位になることでしょうか? いつ終わるとも知れないメタゲームの現時点での覇者になることでしょうか?
違います。必要なのは、政治ゲーム・経済ゲーム(下部構造)に役立つ小説(上部構造)です。政治ゲーム・経済ゲームなんてどうでもいいと思えるくらい、没頭できるメタゲーム(思想・哲学)を書いた小説も、ある意味役立つでしょう。たとえば町田康はメタゲーム(本当の自分)が全てだと思っている自意識過剰な人間が、政治ゲームの中でどんな悲劇を迎えるかについて書きます(「告白」)。村上龍は経済ゲームとメタゲーム(個人の価値観)の相克がテーマですし(「半島を出よ」)、舞城王太郎は世界のメタゲーム性を描きつつも、思いっきりそのメタゲーム(恋愛)を楽しめばいいよという作品を書きます(「好き好き大好き超愛してる。」)。
私は批評村ではこの「社会的有用性」の基準でゲームに参加します。