利己的なサル、他人を思いやるサル―モラルはなぜ生まれたのか / フランス・ドゥ・ヴァール

なぜ僕たちは合理的(利己的)でないのか。新古典派経済学では、ヒトはすべて合理的(利己的)に行動するとされている。政治学の合理的選択理論(Rational Choice Theory) においても、その前提は共有されている。しかし、ヒトは合理的(利己的)なホモ・エコノミクスではない。非合理的(利他的)なホモ・サピエンスなのだ。
動物は決して利己的な存在ではなく、さまざまな利他的な行動をとることが明らかにされている。その理由は、そうした利他的な性質が、環境に適応する上で有利だったからだ。利他的な性質の起源として、2つのメカニズムが考えられる。

1.血縁淘汰(kin selection)

生物学者)ハミルトンによれば、利己的な遺伝子の乗り物である生物も利己的であるとは限らない。進化的エゴイズムと習俗的エゴイズムを混同して、利己的な遺伝子をもっているから動物はすべて利己的な存在だとする仮説は、実証的に否定されている。
例えば、自分の子ども×3を守るために自分の身を犠牲にする状況を考えてほしい。

  • 失われるのは、自分の遺伝子×1だ。
  • 救われるのは、自分の遺伝子× 1/2 × 3 だ。

つまり、損失1 < 利益1.5 になるため、自己犠牲という利他的な行動は、利己的な遺伝子からみて合理的となる。たしかに、ヒトの遺伝子は利己的かもしれない。しかし、だからこそヒトそれ自体は家族にたいして利他的なのである。

2.群淘汰(group selection)

また利他的となれる範囲は家族に限定されない。自分たちが所属するコミュニティ(群)のために動くことも、利己的な遺伝子からみて合理的となりうる。実際にチンパンジーにおいては、身体障害により満足に動けない個体を、直接的な見返りもないのに群が助けている。
おそらく、そうした利他的な集団のほうが、個体がバラバラに動く利己的な集団よりも、進化の上で有利なのではないか。とくに、集団生活を営むことによって他の生物にはないアドバンテージを得た霊長類に、そうした利他性は生き残りやすい性質だといえる。
ヒトも定住生活を始めたのは1万年前であり、それ以前はチンパンジーと同じように数十人のグループを作って狩猟生活を続けていた。
ヒトの利他性は、お互いに顔の見える(つまり互酬的利他行動のフリーライダーを排除できる)数十人の集団生活に適応したものといえる。

3.バイアスの起源

ヒトは合理的(利己的)でない。非合理的(利他的)なのだ。だがその利他性は、狩猟生活時代の数十人のグループに適用されるだけだろう。(本当に友達として親しく付き合える人数も数十人が限界なのではないか。)
ヒトの利他性は、利己的な個人がバラバラに行動することによってwin-winが成立するという市場原理になじまない。ずっと自分たちのグループが得をすれば別のグループは損をするという、win-loseの生存競争をしてきたのだ。そんなゼロサムゲームに適応したヒトは、市場というプラスサムゲームを直感的に理解できない。だから、市場原理よりも、自分の仲間である数十人の特になるように動く。それがたとえ、結果的に誰の得にもならないものだとしてもだ。
ヒトは経済合理性ではなく、自分と自分の仲間の特になると《感じられる》ことを行動原理にしている。これが反市場バイアスの起源である。
ヒトがまた数十人のグループで狩猟生活を始めるようになれば、直観のままに行動してもなんら問題はないのだろう。ヒトの遺伝子はそうした生活にカスタマイズされている。しかし、もはやそうした時代に後戻りすることはできない。ヒトにできることは、理性と教育によってその直観を押さえ込むことである。