僕たちは愚民である――ブライアン・カプラン「選挙の経済学」がすごい part3

5.「合理的な非合理性」理論において集計の奇跡がおきない理由

選挙の経済学
合理的選択理論は、実証的に反例が見つかっている。有権者が利己的に投票するならば、金持ちほど金持ち優遇の政党に投票し、老人ほど老人優遇の政党に投票するはずだ。しかし現実において、金持ちが社会保障の強化を掲げるアメリカ民主党に投票するケースがあるし、若者が老人優遇の政党に投票しないかといったらそんなことはない。



年長者だからと言って、他の世代の人々よりも社会保障やメディケアを強く支持しているわけではない。高齢者はそれらの政策の強く支持しているが、若者も実はそうである。(中略)国民全体と比較して、失業者は政府が保証する雇用をせいぜい少しだけ多く支持しているにすぎないし、保険未加入者も国民健康保険をせいぜい少しだけ多く支持しているにすぎない。自己利益の尺度からは、経済政策に対する信念をほとんど予測することができない。たとえ利害が生死に関わろうとも、政治的な自己利益が表面化することはめったにない。徴兵される可能性のある男性は、ベトナムからの撤退を普通程度に指示し、ベトナム徴用兵の家族や友人は、実際のところ、撤退に対して平均よりも多く反対しているのである。

つまり、有権者が利己的に投票するという、利己的投票者仮説は間違いである。むしろ有権者は「国民全体の利益を考えて投票する」と考えたほうがよい。ではなぜ、市場においては自己の利益のみ考えて行動する国民が、投票においては公共の利益を考えるのか。それは、投票においては利他的に(非合理的に)行動することのコストが安いからである。非合理性は、市場においては「利用者料金」がかかる。愚かなものはそれ相応のコストを支払う。別にバカなことをする自由もあるが、あなたが労働者ならば解雇されるかもしれないし、コミュニティにおいては社会的に抹殺されてしまうかもしれない。そのコストを考えると非合理的なことはできない。
しかし、政治において非合理的に行動してもほとんどコストはかからない。(なぜなら1票の価値が低いから)。そしてコストがかからないからこそ、有権者は利他的に行動するインセンティブをもつ。
それは「他人にいいところを見せたい」という自己表現の1種であるかもしれないし、もともと人間には利他的な側面があって、「利他的に行動してもコストがかからない場面では十分に利他的に行動する」ということなのかもしれない。

しかし、有権者がもつ反市場バイアス・反外国バイアス・雇用創出バイアス・悲観バイアスなどの、非合理的なバイアスが利他的投票を台無しにしてしまう。集計の奇跡では、バカがランダムに投票しても、一部のまともな人がキャスティングボードを握るから、まともな投票結果が得られることがわかった。
しかし問題は、バカは確率的にランダムに分布してバカなわけではなく、偏ったバカだということだ。小さな政府と大きな政府の対立軸をとったら、その間に均等に意見が分布しているなんてことはもちろんなく、大きな政府よりにみんなの意見は集中している。このようなバイアス(偏見)があるおかげで、集計の奇跡は起こらない。たとえ、有権者が利他的に投票しても、このバイアスのせいで結局、利己的にも利他的にもならない愚かな政策が支持を得る。


6.デモクラシー原理主義市場原理主義

みんなが市場原理を毛嫌いするバイアスをもっていたら、経済学的に間違った政策が支持され、経済成長は止まり、格差は固定化し、福祉の原資も底をつき、結局みんなが不幸になる。 それでもいいでいい、だって民意なのだから! と開き直るのがデモクラシー原理主義だ。逆にありとあらゆる問題を政府による自由の侵害のせいにして、小さな政府を望むのが市場原理主義だ。
リバタリアンの僕も、市場には外部性や不完全情報」があり、これらの問題解決に政府は役立つ(こともある)と認めている。市場原理主義なんてナンセンスだ。しかしデモクラシー原理主義も同じくらいナンセンスではないだろうか。

民主主義は、その善し悪しを判断する民主主義以外の基準を持たないが故に、定義上、正しいとされるのである。

生身のデモクラシーでは、有権者は自己の持つバイアスのせいで自らの首を絞めるような愚策が選ばれてしまう。こうしたバイアスを是正する措置が必要ではないだろうか。僕の暫定案はこちら。