現代SFで学ぶ相対主義

ものものしいタイトルですが内容はいたってふつうの現代思想です。2007年のSF界を代表する作品・伊藤計劃「虐殺器官」をネタにしてみました。「虐殺器官」をまだ読んでない人、また読んでもイマイチ楽しめなかった人のための思想的ガイドにもなっています。人によっては毒ですが、思想なんてものは多かれ少なかれみんな毒なので気にせず読んでください。

「みんな違ってみんないい」は嘘

相対主義って「みんな違ってみんないい」ってことでしょ? 
違います。この言葉はむしろ「自分は色んな立場にたって物事を考えられますよ」というアピールであって、対立するグループの調停のために使われるリップサービスです。政治的な駆け引きのための思想的小道具です。
たしかに安定した社会では「みんな違ってみんないい」は真理となりえます。多様な価値観が共存できるだけの体力が社会にあるからです。しかしひとたび紛争地帯は貧困地域に場所を移すと話はまったく変わります。そういった社会には多様な価値観を許すだけの余力がありません。そこでいくら先進国の「相対主義的」な人間が「みんな違ってみんないい」と叫んでも、それは世界の中心で愛を叫ぶのと同じくらいに無力です。

虐殺器官」に見る善悪の構図

虐殺器官 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

虐殺器官 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

ここで「虐殺器官」の話をしましょう。この戦争小説では絶対的な善が出てきません。もちろん絶対的な悪もいません。善VS悪といった単純なストーリーではなく、価値観VS価値観というストーリーなのです。
「単なる相対主義じゃん!」と思うなかれ。ここで示されているのは相対主義の後にくる権力の対立です。そもそもありとあらゆる価値がフラット(平等)だとするなら、価値Aと価値Bが対立する場合、どうしたらいいんでしょう? 多くの哲学はこの問題についてシカトをきめこんでいますが、それもそのはずです。相対主義的に考えると、価値Aと価値Bは思想的に等価値なのです。ですから思想ではこの価値基準同士の対立を解決することはできません。
では一体現実はどうなっているかというと、価値Aと価値Bの勝敗は思想的な部分ではなくもっと物量的なもので決まります。相対主義とは本来、「みんな違ってみんないい」などというのん気なものではありません。思想(メタフィジカル)を平等化するからこそ、物量(フィジカル)がもつ現実への影響力に注目しようという見も蓋もない現実なのです。
先進国の価値観は途上国の価値観を蹂躙するし、金持ちの価値観は貧乏人の価値観を搾取するし、暴力の価値観は秩序の価値観を破壊します。それを「悪い」とする価値観(良心)は誰もが持っていますが、実際にそれが適用されているかとなると話は違います。実際、権力を握っている側はそれを「悪い」だなんて思ってません。もちろんそういった悪行を「善い」と思ってやっているわけでもありません。
恐ろしいことですが、実際に彼ら(彼女ら)は自分がどういった立場にあるかについては何も考えていません。だってそんな厭なことは誰も見たくないし聞きたくもないからです。

静かな権力の行使のかたち

たとえば移民規制について考えてみましょう。日本国が行っている移民規制は途上国の人たちの「自分の好きな場所で働ける権利」を侵害しています。規制という壁をつくることによって日本人は自分たちの既得権益を守っているのです。日本人に生まれたというだけのことで世界標準よりも格段に高い賃金で働ける理由がここにあります。これを「悪い」とする言い分だってあるはずですが、大多数の日本人にとってはそんなことは頭にものぼりません。彼ら(彼女ら)はことの善悪に関して徹底的に無関心なのです。彼ら(彼女ら)が冷酷だとか残虐だとかそういう話ではなく、自分が無関心であることにすら気づいていない、無関心であることにすら無関心であるというレベルなのです。
このように権力の行使というものは、「善い」「悪い」を抜きにして常に働いています。PCのバックグラウンドで作動する常駐ソフトのように、とてもとてもひそやかに権力は稼動しているのです。

先進国の人間として生きるということ

さて、このブログは日本語で書かれているので、読者のみなさんも大多数が日本人なのでしょう。それを前提に話を進めますが、私もあなたも「日本人である」というただそれだけの理由によって静かに権力を行使しています。既得権益にしがみついているという意識がなくても、いや、そういった自覚がないからこそ強く静かに既得権益にしがみついています。
そうした権力者が相対主義を語ることほど欺瞞的なものはありません。「みんな違ってみんないい」の《みんな》に含まれているのは自分たち権力者だけであって、途上国の人は《みんな》ではありません。本当に《みんな》いいと思っているのなら今すぐ移民規制を撤廃して、どんな外国人でも自由に働ける社会にすべきです。《みんな》いいわけじゃないからこそ、移民規制が存在するのです。

社会的・経済的基盤を抜きに思想は語れない

とはいえ、今の日本では「みんな違ってみんないい」は半ば当然のこととして扱われています。これは一体どういうことでしょう?
ここには「(日本人なら)みんな違ってみんないい」という共同体意識があります。「この安定している社会の中だったら少しぐらい変わってる子がいても大丈夫だよ」という余裕があるのです。整備された社会的インフラ、成熟した経済があってはじめてその余裕は生まれます。
さて、そんな余裕がない紛争地帯・貧困地域ではどうなるでしょう? そこでは「(○○なら)みんな違ってみんないい」などとほざく余裕はありません。そもそも「○○なら」と言えるような支配的な共同体がいなかったり、共同体同士が小競り合いしているところだってあります。社会的インフラもなければ、経済も発達していない、そういった社会にあるのは「飢えたくない」「子どもを死なせたくない」「もっといい生活がしたい」というプリミティブな欲望です。社会が多様な価値観を望むレベルに達していないのです。
そういう人たちに向かって「みんな違ってみんないいから、貧困でもいいよね」と言うことは私にはできません。そもそも、移民規制によって高賃金の労働市場から彼ら(彼女ら)を締め出している先進国の人間としては、なにをやっても偽善的にならざるをえません。そういった心苦しさから貧困地域へ経済的に援助することが世界的に流行っていますが、この方法だとむしろその地域の経済を破綻させてしまうことが多く、なかなか難しいものがあります(ウォルター・ブロック「不道徳教育」を参照)。そういうわけで「AID(援助)からTRADE(貿易)へ」というスローガンを掲げたフェア・トレードが現在進められています。 が、その効果は貧困を解決するまでには至っていないようです。

相対主義という隠れ蓑

さて、現状がこのように権力の行使の場である以上、相対主義なんてものはおこがましくて使えないはずですよね。ところが実際、相対主義はめちゃくちゃ流行っています。ということは、これは要するに政治的なアピールにほかなりません。
「自分は思想的に中立だ。どんな立場も受け入れることができる」そういうアピールによって物分りのいい人間を演じてみせているのです。そしてそれはとりもなおさず、欺瞞的な権力の行使です。自分を中立的だと相手に思い込ませ、そして自分でも信じきることで、無邪気に権力を行使しようという戦略なのです。

虐殺器官」としての権力

虐殺器官」というフィクションでは、虐殺を誘発する器官として「ことば」の力を挙げていました。しかし現実の社会を見てみるとより直接的に虐殺の引き金を引いているのは権力です。権力と権力の対立が戦争や紛争となって現れるのです。
また、一見わかりやすい権力VS権力という対立という構図がなくとも、静かな権力の行使というものは存在します。実際に私たちは移民規制によって途上国の人を貧しいままに閉じ込めています。その貧困が戦争の一因となっていないはずがありません。そして多くの戦争では確実に虐殺が発生します。

自覚によって変わること

無知ほど恐いものはないといいますが、私たちの無関心さは確実に貧困の原因ですし、虐殺の遠因です。この問題にたいしてなにかアクションを起こせと命令する気はありません。ですが、先進国の人間である私たちの享受している豊かさが、途上国の人間の犠牲の上に成り立っていることは自覚すべきです。権力を行使しているという自覚をもって生きることで、人はこのいびつな構造を変えようという気持ちになれます。そのわずかな気持ちの変化が本当に平等な社会を作るための礎(いしずえ)となるはずです。
楽観的すぎるかもしれませんが、300年前の欺瞞が今日の民主主義を生んだように、今日の理想が300年後の社会の基盤となるでしょう。いや、そうなると信じて社会にコミットしていくべきなのです。


(以下ネタバレ注意!)

欺瞞を許せないなら

とはいえ、こんな茶番を許す気にはなれないという人もいるでしょう。

  1. 虐殺器官」の主人公は欺瞞を許すことができずに、欺瞞的な社会そのものをぶっ壊すことにしました。
  2. 「ハーモニー」では、欺瞞を感じる主体ごとぶっ壊し(あるいは改善し)社会を変えました。

でもこんな極端な選択を選ぶことはできない私たちはどうすればいいのでしょうか?


地味な方法ですが

貧困のない世界を創る

貧困のない世界を創る

問題を解決するために何ができるか
五〇〇億ドルでできること

五〇〇億ドルでできること

そもそも優先して解決すべき問題は何なのかを知るべきでしょう。