デモクラシーの使用環境――イアン・シャピロ「民主主義理論の現在」がすごくない

1.良いデモクラシーの評価基準

シャピロは民主主義(デモクラシー)の良し悪しを評価する基準として「不当な支配をどれだけか減らせるか」という基準を提示します。ここでいう「不当な支配」とは、自分の意思に反した拘束を強いられる状態です。たとえば、学校の先生が生徒に宿題を与えるような命令関係は形式的にみれば支配といえるかもしれませんが、生徒に退学する自由がある以上は、不当な支配とはいえません。
しかし僕はこの「不当な支配の最小化」の基準はあいまいすぎると考えます。真に支配を無くしたいのならば、デモクラシー(多数決)は必要ないはずです。結局、多数決で決めるということは、多数派が少数派を従わせることを認容することでしかありません。だから、すべての個人が自分に利すると思ったことだけに合意する、契約ベースの社会こそが、不当な支配の最小化の行き着く先となるはずです。
とはいえ、この社会では国家は何もしないので、経済的な格差は広がるでしょう。そうした状態を「経済的強者が経済的弱者を支配している」と記述する人も出てくるでしょう。そうすると、不当な支配を無くした結果によって不当な支配が新たに生まれてしまうことになります。つまり、人によって何が「不当な支配」かの基準が異なるので、この基準によってデモクラシーを評価することはできないわけです。

2.なぜデモクラシーが望ましいのか

ではどのようにデモクラシーの良し悪しを判断したらいいのでしょうか。本論ではそもそもなぜデモクラシーが望ましいかを考え、そうした望ましさを実現できるデモクラシーこそが良いデモクラシーとして話を進めてみます。
憲法学的には、「国家の支配の正当性」を与えるような権力の制度こそがデモクラシーであり、だからデモクラシーは望ましい、ということになります。国家には個人間の合意によらず、人々を強制できる力があります。この状態を正当化するために、治者と被治者の自同性(自分たちで自分たちのことを決めているんだからいいだろう)ということがいわれるわけです。

3.初音ミクによる統治

治者と被治者の自同性がデモクラシーの必要根拠とすると、当然「治者と被治者がどれだけ近いか」がデモクラシーの評価基準となります。しかし、この考え方を進めていくと、なかなか大変なことになります。
たとえば、濱野智史という人は「もう初音ミクが出馬するべきでは」と言っています。言い分はこうです。そもそもデモクラシーなんてものは、自分たちのことは自分たちで決めるというだけなんだから、誰か代表を選んでその人に統治を任せるなんていうのはちょっと変だ。固有の頭を持っている分、独自の裁量でなにをやるかわからない「人による統治」よりも、自分たちの意見が直接政策を決めるような「理念による統治」のほうが望ましいんじゃないか。しかし誰かに主権を委任しないことには運営上いろいろと大変なので、理念を体現したキャラによる統治がめざすべき民主制のあり方となる、と。
ここにあるのは、間接民主制よりも直接民主制のほうがより民意を反映できている分すぐれているという思想です。現状では、主権者の意見をそのまま代弁するような存在がいないので、じゃあそういう存在をキャラとして作っちゃえ、というわけですね。
この議論は「ありとあらゆる問題はデモクラシーが完璧でないがゆえに起こりうる」ということを前提にしています。だから問題解決は「いかに民意を反映するか」ということになります。現状の代議士が自分たちの意見を反映せずにクソみたいな運営をしているとなると、じゃあ自分の裁量を一切もたない初音ミクに議員になってもらおう! というのも選択肢として出てくるわけです。
しかし、僕が懸念しているのは、「民意を反映すればするほど、間違った政策運営がなされるだろう」ということです。カプランは「選挙の経済学」において、投票者には反市場バイアスがあり、自分の首を絞めるような愚策を平気で選んでいることを統計的に示しました。そして「すべての社会の病はさらなる民主化によって治癒されうる」という思想を、デモクラシー原理主義だと批判したのです。生身のデモクラシーでは、有権者は自己の持つバイアスのせいでまともな政策を選択できないことは事実であり、こうしたバイアスを是正することでしか僕たちの生活は豊かにならないでしょう。

4.デモクラシーが正当化される範囲

デモクラシー原理主義を是正するための処方箋として、熟議が挙げられます。鈴木寛が「三鷹第四小学校一年一組のことは、文部科学省副大臣の僕にはわからない。官僚にもわからない。教育委員会にもわからない。わかっているのは担任や保護者といった当事者だ」といったことをニコ生で言っていました。そして「当事者でもない人間がいくらトップダウンで決めたところでどうしようもない、むしろ現場にいる人間たちで話し合って決めてもらったほうがいい」と言います。これもまた間接民主制よりも直接民主制のほうがすばらしいというあの思想なわけですが、鈴木寛のアプローチでは当事者同士が議論することによって当事者が持っている誤った信念が妥当な信念に変わることがポイントです。つまり議論を通して有権者のバイアスが打ち消されることが期待できるのです。
たとえば三鷹第四小学校一年一組のことを何も知らない教育委員会のおっさんが議論しても、くだらない結論しか引き出せないでしょう。しかし三鷹第四小学校一年一組の担任や保護者が、当事者として議論したら、その民意は政策的にもまともな民意になっているはずです。なにせ自分のことですから、誰だって真剣に議論します。
さて、こうした熟議民主主義にも問題が無いわけではありません。そもそも利害関係者がたくさんいて何も決まらないから、とりあえず代表を選んでそいつに問題解決作業を委任するというのが、現代の間接民主制なわけです。そこに熟議とか持ち出してきても結局何も決まらなくなるだけじゃないか、という批判が当然出てきます。シャピロは望ましいデモクラシーの形態として競争的民主主義を挙げていますが、これは「とりあえず一番マシな奴に決めさせる」というもので熟議民主主義の欠点を回避できます。
しかし、僕は競争的民主主義を取らざるを得ないような領域は、デモクラシーで決めるべき範囲を逸脱しているのではないか、と考えます。熟議できないような領域にまでわざわざ決断を下すということは、小数の代表者が議論した結果に多数が従ってもやむを得ない、ということです。さすがに国防くらいは、小数の代表者に従うことも仕方がないとは思いますが、その他のトピックについてまで、なぜ多数が少数に服従する必要があるのでしょうか。
つまり、問題はいかなるデモクラシーが望ましいかではなく、デモクラシーが正当化される範囲はどこまでか、ということなのです。そもそもデモクラシーが成立したポリスの時代、住民の人口は多くて20万人程度でした。*1 つまり、デモクラシーは20万人の住人たちが自治をするために使われた制度なのです。また直接民主制を主張したルソーの時代もジュネーブの人口は2万4000人でした。もしアテネ市民やルソーが現代の何億人もの人口を統治する間接民主制を見たら、おそらくこれはデモクラシーの名に値しないと言うでしょう。少数の支配者が「代表」というフィクションの下に腐った運営を行っているだけで、そこにはデモクラシーの使用環境である住民自治がないからです。
よって20万人程度の地域共同体だとデモクラシーは妥当すると思います。今はテクノロジーが発達してネットを使って意見の集計とかもできるので、もう少し多くても大丈夫でしょう。よって30万人くらいなら、デモクラシーは妥当します。

5.ぼくがかんがえたさいきょうのでもくらしー

ではデモクラシーのあるべき姿はどうなるのでしょうか。まず中央集権国家は解体され、30万人くらいの自治体に強大な権限が付与されます。徴税権・法律制定権・司法権など、現在の国家が有している権力はすべて自治体が有します。アメリカの連邦制の各州が、さらに住民に密着した単位になっている感じです。
これを僕は、競争的地方自治と呼んでみたいと思います。自治体の裁量が強いので、それぞれが自分たちのやりたいことを追求する結果、自治体の多様性は飛躍的に高まるでしょう。リベラリストが集まる自治体、リバタリアンが集まる自治体、コミュニタリアンが集まる自治体、というのも出てくるはずです。現状の国家体制では、望ましい社会を実現するためには多数派を説得する地道な努力が必要ですが、この競争的地方自治の下では、望ましい社会は引っ越しの対象でしかありません。なんという手軽さ。


*1:市民、奴隷がそれぞれ10万人ほどです。