ハーモニー / 伊藤計劃

「近代」の前提をぶっ壊した超問題作。

間違いなく2008年ベストの小説。その価値観のちゃぶ台返しっぷりには脱帽する。 クラーク「幼年期の終わり」エヴァンゲリオン人類補完計画など、人類の進化というテーマはSFではおなじみだが、これほど大胆かつ精密にこのテーマを扱った作品はないんじゃないか。 脳科学ナノテクノロジーの発達が心理学を変え、そして社会学や経済学をの前提をぶっ壊し、ついには世界を一変させてしまう……。そのプロセスは、単なる思考実験にとどまらない激烈なインパクトを持っている。 ストーリーがやや弱いとか、パロディが寒いとか、そんなささいな欠点は気にならない。圧倒的な面白さがある。


以下ネタバレ。

はたして人類は幸福になったのか?

【幸福を認識できるのか】
かなり疑問だ。そもそも意識を刈り取ることが「幸福」であることの根拠はミァハの「意識が無かったときは恍惚だった」という発言である。つまり、意識のある脳が無意識だった状態を振り返って「幸福」だったと感じたわけだ。逆に言えば意識の無い脳はその「幸福」を味わうことも認識することもできないのではないか?
無我の境地と無心とか、自意識がなくなって目の前の行動に集中している状態を賛美する言葉は多い。しかし、無我の境地とか無心とかを褒めたたえるのはいつだって、そういう状態にない時なのだ。ひとたび無我の境地や無心が常態化して当たり前になってしまったら、誰が一体をの状態の良さを評価することができるだろう?
(ただ、「幸福」もない代わりに「不幸」もなさそうだ。それはそれで「幸福」っぽくはある。限りなく死に近いけど)



【幸福と言ってしまっていいのか】
たしかにうだうだと思い悩んで自殺するよりは「幸福」だと言えるかもしれない。しかし、そもそも自殺を不幸だと断定するのには無理がある。それが本人の自由意志による決断である以上、他人がとやかく言える問題ではない。また自殺だってある意味、本人の「幸福」を高めるための合理的な選択であることもある。

エクスタシーには二種類あり、一つは、以前の状態、通常状態からの変化にexciteし、ここからエクスタシーを感じる。もう一つは、占有からエクスタシーを感じる。権力欲で言うと、権力を取ることにエクスタシーを感じる場合には、出世の階段を駆け上がるプロセスに興奮し、目標を達成することにより、エクスタシーを感じるから、これは、前者の変化エクスタシーである。権力を保持することにエクスタシーを感じる場合には、権力の維持、他人が自分の思い通り動くことにエクスタシーを感じ、これは権力の占有によりエクスタシーを感じるパターンである。(中略)
エクスタシー理論も、エクスタシーが本能的なものか社会的なものか解釈が変わってくる。社会的なエクスタシーとは、自己のプライドなどを満足することにより得られる。したがって、勝つことによりエクスタシーを感じるとは、プライドを満足させることになるが、負ける可能性が高いときには、プライドが傷つけられないように、勝負を避ける。マイナスのエクスタシーを避ける、ということである。
自殺の解釈はマイナスのエクスタシーの自己破産であり、生き恥をさらすことを防止するということである。
小幡績PhDの行動ファイナンス投資日記:エクスタシー理論

かなり大ざっぱな議論だが、自殺にだってそれなりの価値はあるのだ(たとえそれが社会の価値観からは外れる価値だとしても)。この自殺の価値を「悪い」ものだと決めつけ、社会が「善い」と思った価値(全体との調和)を強制するのは、はたして「善い」ことなのだろうか? それがはたして個人にとっての「幸福」ということなのだろうか?


経済学が終わる可能性

新自由主義の親玉・ハイエク「隷従への道」で示したように、福祉国家は本質的に全体主義である。

自由主義:あなたや私の個別具体的な人生はそれ自体が究極の目的であり、他のいかなる目的の手段となることはない。

全体主義:あなたや私の個別具体的な人生が他の何かの目的のための手段と成り下がる。

つまり、公共の福祉のためなら個人の人生が少しぐらい窮屈になってもかまわないというのが福祉国家なのだ。福祉国家がこうした全体主義である以上、どうしてもその「空気」に染まりきれずに、社会に対して反発するマイノリティが出てくる(「ハーモニー」の主人公がそうであったように)。 しかしハイエクやその他の自由主義の信奉者がその結論の前提にしている仮説がいくつかある。 それは〈完全な道徳律〉は存在しないし、決して実現しないというものだ。

〈完全な道徳律〉とは、 「万民が納得するような価値の順序付け」であり、 「全ての分野における何が善くて何が悪いかのコンセンサス」であり、 「社会における根本的な価値についての共通意見」である。


1.福祉を定義するためには〈完全な道徳律〉が必要。しかし〈完全な道徳律〉など存在しない。
2.〈完全な道徳律〉は、教育によっても押し付けることはできない。 世界には異なる道徳・思想・価値観を持つ多くの人間がおり、その全てが同質の道徳・思想・価値観にまとめ上げられるなんてことはありえない。

この2点から自由主義は、共産主義社会主義を批判した。 しかし、〈完全な道徳律〉が実現してしまったらどうだろう?  全ての人の思考が合理的になり、それゆえ自明で予測可能になり、そして社会全体が一つのコンセンサスにまとめ上げられてしまったらどうだろう?


真の福祉が実現する。


それが「善い」か「悪い」かは今の自分にはわからないけど。