ダークナイト

話題のバットマン最新作。観てきましたよ。すげーです。とりあえず「スパイダーマン」みたいなド派手なアクションシーンさえ観れれば満足かな、と軽い気持ちで観ていたんですが最後の最後で評価がガラッと変わりました。
映像のショッキングな切り替えが上手いですよね。もうなんか反射的にびくってなっちゃいます。悪役のヒース・レジャーキチガイっぷりもウザくていい。何かの目的のために無茶をやるんじゃなくて、無茶をやるために無茶をやっている。その芸風の無茶っぷりは清涼院流水を思い出しました。




で、その分、正義のヒーローであるバットマンには期待がかかるわけです。もうこいつホントどうしようもないクズだから早いとこ取っちめてくれよ! という気分になります。だからその思いをストレートに拳で表現するアクションシーンは爽快です。今すぐそいつをボッコボコにしろバットマン! おれが許す! みたいな。
でもバットマンはそのサイコ野郎ですら殺さないのです。あれー。なんだよそれー。不満が溜まります。今さら、なにそんなモラルもってんの? あれだけ暴れといてそれはねーよ。だって明らかに人を轢き殺す勢いでバイク乗ってたじゃん! 他にもきわどいシーンいっぱいあったし、そんなに人命を危険にさらすパフォーマンスしといて、なんで肝心のラスボスを殺せないんだよ! さらにバットマンのモラルが偽善的だと感じるのが、彼がビルゲイツもびっくりの大富豪という設定です。そのセレブっぷりは遺憾なく発揮され、金の力で数々の贅沢と秘密兵器の開発が行われます。あのなあ。そんな金あるんならちまちまバットマンなんかやってないで社会的な構造を変えるほうが早いだろ。犯罪の温床となる貧困の解決とかもっとやるべきことあるだろ。筒井康隆「富豪刑事」みたいに金に糸目をかけないことで事件を解決するやり方だってあるんじゃないか。
まあそれじゃあヒーローモノにならないですから、たとえばこういうのはどうでしょう。その名もバットマン量産化構想。主人公一人がバットマンやるんじゃなくて、その技術を流用した量産型バットマンを1万人ぐらい整備します。これなら同時多発テロにもテンパることなく対処できます。
とにかく、このバットマンはなんでもかんでもヒロイックにやろうとしすぎ。だから「殺さない」というモラルもそうしたヒロイックな演出のひとつにしか見えない。そのおかげで被害拡大してるんだから、もう馬鹿すぎる。もし戦場に行くことになっても絶対コイツの指揮下にはなりたくない。
しかしラストではここまでの不満が全てくつがえる。
ハーベイ・デントの顔をひっくり返すシーンや、ヒロインからの手紙を燃やすシーンは不覚にも涙が出そうになった。事実を葬れ。世界をフィクションで満たせ。人々は幻想を求めている。人々はヒーローを求めている。ならばその虚像を作り出すのだ。なんてカッコいいんだ! 要するにコレは、物語を捏造するお話だったんだなあ。ヒーローというありきたりな類型を視聴者の心理がいかに肯定しているのか、という過程をまざまざと見せ付けることで、自分たちがいかにヒーローを熱望しているかを思い知らされます。そしてそのことがこの作中のヒーローの捏造を強い意味のあるものにしてる。人間は弱い。だから強いものに憧れる。だからたとえ現実が違ったものでも、ヒーローというフィクションを、英雄の死という物語を求めるんだ。それが大切な人からの最期のメッセージでも、都合が悪かったらもみ消すことだってある。それは一見弱い現実逃避かもしれないけど、逆に言えばこの上なく強い現実のリライトでもある。この作品は最大限のフィクション賛歌なのです。