運命は存在するのか


要するに予め明日は決定しているのか、という話です。存在するかどうかは分からない、というのが結論ですが、小林泰三「脳髄工場」「予め決定されている明日」(「目を擦る女」収録)ロバート・J・ソウヤー「フラッシュフォワード」などの作品を読むと運命は存在するのではないか、自由意志など幻想に過ぎないのではないか、という気がします。でも個人的には「運命は存在しない」と信じています。願望ではありますが、根拠を挙げます。

人間原理」の応用

人間原理」というものがあるように、人間は観測することで自身の存在を確立している。*1
とすれば、個人単位にも自身に都合のいいように明日を観測する力はあるのではないか。同じ波動関数を収束させるのでも、努力した場合としなかった場合では、やっぱり努力した方がより都合よく波動関数を収束させるのではないか。

運命があってもいいじゃん

たとえ予め明日が決定されているとしても、それは最良の結果ではないのか。人間というプログラムは快と不快だったら迷わず快を選ぶように定められたものだ。このプログラムを走らせたとき、もっとも行き着きやすい妥当な結果は、自身が感じる快を最大化するというものだ。つまり幸福を最大化する選択しか人間は選ぶことが出来ず、予め決定されている明日というのは、数ある選択の中でも最も幸福なもののはずだ。*2
とすれば、人間が持つべき戒律は「あるがままにあれ」、これで十分。*3
あるがままに運命を受け入れるのが、唯一できる選択であり、最も幸福な選択である。というわけでエンジョイ&エキサイティング!*4

*1:宇宙が奇跡的に人間に都合のいいように設定されていたと考えるのではなく、まず人間がいて、この人間が宇宙を観測したことによってそのように都合のいい宇宙が設定されたのではないか。宇宙の存在と人間の存在どっちが確からしいかといえば、とりあえず今こうして考えている「私」の方が確実に存在するわけで、そんな「私」の存在から逆算して宇宙がこのように奇跡的な定数を持っているのではないか。というわけです。

*2:ここで注意すべきは幸福のかたちは人それぞれだということです。身を持ち崩したりするのもひとつの快楽です。賢いとは言えませんが、一般的な幸福だけが全てではありません。

*3:無法を歓迎するという話ではありません。法律を作ってより心地よい社会を創ろうという意志もまた、自然に生まれるわけですから、そういう善良な意志もまたあるがままに持つことが肝要です。

*4:ベルセルク」はいい作品なのでオススメ。