コペンハーゲン解釈は間違い!?― 猫でもわかる「ウィグナーの友人」

「シュレディンガーの猫」と、それを発展させた「ウィグナーの友人」という思考実験について解説します。本当は、シュレディンガーの猫でもわかる「ウィグナーの友人」だったのですが、長すぎたんでこのタイトルに。
スティーヴン・バクスター「時間的無限大」のメインアイディアのひとつの解説でもあります。作品の面白さはこれだけではないのでは未読の方も大丈夫です。量子力学にふれたポピュラーサイエンスにもけっこう載ってる話題だし。

シュレディンガーの猫

箱の中に確率50%で毒ガスを発生させる装置と生きている猫を閉じ込める、という有名な思考実験です。猫が生きているのか死んでいるのか外の人間にはわかりません。アインシュタインは「神はサイコロは振らない」としてこう主張しました。箱の中の猫は生きているか死んでいるかどっちかの状態に必ずあるはずだ。目を閉じてもそこに世界があるように、また見知らぬ山に転がる石ころだって誰に見られずともそこに在るように、箱の中の猫は、たとえ観測されていないにしても、生きているか死んでいるかどっちかの状態にある、と。
一方、コペンハーゲン解釈では、「物事は観測されるまではわからない。確率的にどうなっているかは予測できるが、実際に観測するまでは両方の可能性が起こりうるのだ」と考えます。そのため、箱の中の猫は「生きている」状態と「死んでいる」状態両方の可能性があり、どちらの状態が正史となるかは観測された瞬間に決定されると主張しました。箱を開けて生きていたなら、時間を遡って「毒ガスは発生しなかった」という事実が決定されます。箱を開けて死んでいたら、時間を遡って「毒ガスは発生した」という事実が決定されます。このように事実の決定には観測者が必要だというのです。「神はサイコロを振る。そしてその出目は、人間が確認するまで神といえどもわからないのだ」というわけです。

ウィグナーの友人

さあ、ここで我らがウィグナー*1 の登場です。シュレディンガーの猫の生死(毒ガスが実際に発生したかどうかという正史)が観測者によって決定されるとしましょう。ウィグナーは自分の友人をこの観測者に任命しました。ウィグナーの友人が箱の中の猫の生死を確認し、その結果をウィグナーに後で伝えるというわけです。友人は密室で猫の生死を観測し、ウィグナーは別室で待機しています。さて、猫の生死はいつ決まるのでしょうか?
コペンハーゲン解釈を採用すれば、猫の生死は友人が観測した瞬間決定されます。しかしこの友人がその密室を一歩も出ず、情報をひとつも外に流出しなかったらどうなるでしょう。外で待ってるウィグナーには猫の生死は一生わかりません。そう、ウィグナーにとっては友人の入っている密室自体が、巨大な「シュレディンガーの猫」の箱なのです。ウィグナーもまた観測者ですから、ウィグナーがその密室に入って「どうだい?猫は生きてる?」と友人に訊くまで、その密室の状態は不確定なのです。つまり「猫の生死を決めるのは観測者だ」という論理を採用すると、「《その観測者Aの観測結果》を確認するのはまた別の観測者Bだ」「《その観測者Bの観測結果》を確認するのはまた別の観測者Cだ」……というように、どこまでも入れ子構造が続きます。そしてこれが無限に続いた結果、これまでのありとあらゆる出来事を観測する、究極観測者が現れます。
究極観測者は時間的無限大におり、それまでの事柄を観測することで歴史を決定します。箱の中の猫の生死はもちろん、それを観測した友人、友人を観測したウィグナー、ウィグナーについて言及する私、私の文章を今読んでる読者、その読者を観測する別の人間……この宇宙のありとあらゆる物事を観測し、決定するのです。その決定の瞬間、過去に遡ってありとあらゆる事実ははじめて確定されるのです。シュレディンガーの猫の生死が、蓋を開けた瞬間はじめて決まるように。あなたがこうしてこのブログを読んでいるという事実も、時間的無限大の彼方からはるばる遡って確定されたものかもしれません。
スティーヴン・バクスター「時間的無限大」では《ウィグナーの友人》と名乗るカルト教団が出てきます。彼らは、歴史はいまだ決定しておらず、究極観測者が観測するまで全ては不確定のままだと本気で信じています。そして時間的無限大まで残り、究極観測者に観測されるような事実だけがこの世で価値があると考え、情報を時間的無限大まで保管するためだけに行動します。
余談。よくドラマでは「この愛は永遠だ!」みたいなことを叫ぶシーンがありますが、これは恥ずかしいですね。生涯その愛を貫き通したとてたかだか100年程度ですし、「ロミオとジュリエット」のごとく記念碑的作品になったとしても、地球が太陽に飲み込まれて蒸発するまでの50億年残るだけです。真に永遠を求めるなら、データを無限の時間を経ても残るように保管しなくてはいけません。究極観測者を想定するならなおさらです。

シュレディンガーの猫にも五分の魂

「ウィグナーの友人」について考えると、コペンハーゲン解釈はちょっとおかしいんじゃないかという気がしてきます。人間に観測されないと生死がわからないなんて、猫が不憫ですよ。猫だって自分の生死を観測してるかもしれません。ちょうど私たちが、「私は誰に観測されずとも、世界を確定している。だってほかならぬ自分が観測しているではないか」と信じているように。たとえ審判の日が時間的無限大に来ようとも、私たちは普段と同じように日常を生きるしかありません。過去を参照し、未来を予想し、刻一刻と現在を確定し続けるのです。たとえそれが究極観測者の夢のごとき儚いものでも、お構いなしと言わんばかりに生きるしかないのです。
並行世界を想定する多世界解釈については、論旨を明確にするためあえて省きました。また後日、解説するかもしれません。

*1:フルネームは、ユージーン・ウィグナー。日本語で読むとちょっと面白い。