運命はクソゲー!?― 猫でもわかる多世界解釈

運命は存在するのか、もし存在するとすればそれはクソゲーではないか、という話。

まず、多世界解釈について一般論を引用します。本論とはあまり関係ないので、読み飛ばしてもOKです。

有名なシュレディンガーの猫について一般的な解釈(コペンハーゲン解釈)とエヴェレットの多世界解釈の両方を示す。

[一般的な解釈]
シュレディンガーの猫は観測者が観測するまで(観測者にとって)、「生きている猫」と「死んでいる猫」の重ね合わせの状態にある。観測者が観測する過程で(観測者にとって)、猫の状態はどちらか一方に定まる。これがいわゆる波動関数の収束である。

[多世界解釈]
シュレディンガーの猫のいる世界は、「猫が生きている世界」と「猫が死んでいる世界」に分かれる。当然、「猫が生きている世界」にいった観測者は猫が生きていると観測し、「猫が死んでいる世界」にいった観測者は猫が死んでいると観測する。もちろん、観測者は、猫を観測するまで自分がどちらの世界にいたのか知ることは出来ない
エヴェレットの多世界解釈 - Wikipedia


もしあの時こうしていたら今とは違う人生になっていただろう……と夢想しない人はいないでしょうが、量子力学多世界解釈ではこれらifの世界が全て実在すると考えます。パラレルワールドがあると言うと、なんともロマンチックですが、実際は違います。全ての選択肢で世界が分岐し、無限の平行世界があるということは、人はありとあらゆる可能性を(強制的に)選ぶということです。これは夢をぶち壊しにする考え方です。
たとえば、宝くじ。宝くじはたった1枚300円の投資で億単位の金が入ってくる(かもしれない)からこそ、夢があるのです。これを全くじ買い占めなくてはいけないとしたら、どうでしょう。確実に当選するわけですから何億もの金が入ってきます。しかし出費はその倍です。1億円儲けるために、2億円分宝くじを買うハメになります。
宝くじはその代金の50%が売店のおばちゃんの給料などに消え、残りの50%が賞金として分配される仕組みです。くじを買い占めてしまうと確実に損をするゲームなのです。もちろん期待値を考えると、買い占めなくても損をするわけですが、でも毎度毎度ほんの一握りの強運の持ち主は大儲けしています。宝くじを買うとき、人はくじそのものだけではなく、「自分だってラッキーチャンスをつかめるかもしれない」という夢も一緒に買っているのです。
話を戻しましょう。運命が存在しなければ、人は希望をもてます。「可能性は小さいけど、もしかしたらラッキーな人生を送れるかもしれない」。そうやって夢にすがることができます。しかし、ありとあらゆる可能性を選ばなくてはいけないとしたら、夢だけじゃなく悪夢のほうも抱えなくてはいけません。せいぜい、自分の人生が宝くじのようなクソゲーじゃありませんようにと祈るばかりです
そして、全ての可能性をしらみつぶしに選択することは、自由意志が全くなく、人生に分かれ道は存在しないとうことです。なにかを選ぶということは別のなにかを選ばないことである。とすれば、全ての選択肢を選ぶ人生は、逆にこれっぽっちも選択していないことと同じです。多世界解釈が示す運命の姿は、残酷です。
とはいえ多世界解釈が完全に決定論であるかどうかは、いまのところわかっていません。努力することで運命という宝くじの期待値を上げることができるかもしれません。たとえ最悪の可能性を常に選ぶ自分がいるとしても、そうした自分の存在を確率的に減らし、ベターな可能性を選ぶ自分の存在を確率的に増やすことこそが「努力」なのかもしれません。クソゲーだと決め付けずに楽しく遊べるよう「努力」すれば、案外クソゲーじゃないってのはよくあることです。


参照

運命の存在を否定しようという話はこちら。エヴェレットの多世界解釈ではなく、コペンハーゲン解釈を採用しています。

運命について考えさせられる良作。