宇宙を決定しているのは人間だった!?― 猫でもわかる「ビットからイット」理論


情報工学の巨匠ジョン・ホイーラーが提唱したこの理論は、世界のありとあらゆるものは情報であり、その情報(bit)を観測することによって存在(it)が生まれる、というものです。まあ、これだけでは何を言っているのか全く分からないでしょう。あまりにも突飛すぎて、一般に認められていないのはおろか、専門家の間でも賛否両論渦巻くホットな理論です。ググっても全然解説が出てこなかったんで、そんなら自分で解説してしまおうと思いこのエントリを書きました。

全ては情報

この理論の前提は、全ては情報である、というものです。なるほど、たしかに人間は五感を通してしか世界を見ることが出来ず、全てを情報としてのみ捉えています。世界そのもの・存在そのもの*1を知覚したことなど宇宙が始まって以来一度としてなかったのです。 *2
それならもう、「世界が存在する」と仮定なんかしなくていいじゃないか。「世界が存在する」ように感じる・そのような情報を観測する、それだけが唯一人間に出来ることなら、それこそが世界の真理なのだろう。つまり一般的な意味で世界は存在しない。あるのは情報だけだ。*3

情報は、《情報処理》されてこそ、情報となる

情報は、データそのものだけでは意味がありません。そのデータを解釈できる人がいてこそ、情報は情報たりえるのです。この文章も「日本語」という情報処理システムのもとで、初めて意味を成します。日本語の文章は、日本語が読める人にとってのみ意味がある情報です。たとえば世界から日本人が絶滅したら、その瞬間にこの文章も天井の染みや壁に彫られた傷のようなジャンクデータとなるでしょう。まあ、漢字が使われているので中国人なんかはなんとなく理解できるかもしれませんが、人間が絶滅したら、それこそ完璧にゴミデータとなります。
このように情報世界における《情報処理》は特権的な役割を持っています。情報を処理する(観測する)ものこそが世界を形作り、意味と存在を生み出しているとさえ言えます。

奇跡的な宇宙の設定

「われわれが宇宙にしたがうだけでなく、宇宙のほうもわれわれにしたがうのだ」
ジョン・ホイーラー

これを裏付ける証拠として、物理定数の奇跡的なまでのご都合主義が挙げられます。たとえば、宇宙の膨張速度が千億分の一でもずれていたら、私たちの宇宙は存在しなかったであろうと言われています。なおかつ地球のような惑星が生まれ、人間のような知的生命体が生まれる確率を考えると、天文学的という言葉すら生ぬるい極小の可能性です。大竜巻がくず鉄置き場を襲った結果、ボーイング747ができあがってしまったようなものだ、という意見すらあるほどです。
偶々そうなったんだよ、とコペルニクス原理の論者は言います。人間は宇宙の中心などではない。すべては偶然そうなっているだけだ。地動説よりも天動説を信じたくなるのはわかるが、だからといって私たちが世界の中心であるかのような物言いは馬鹿げている、と。
しかし人間原理の論者は、まさしく人間がいるからこそ、宇宙がこのように観測されたのだと言います。「ビットからイット(It from bit)」理論はさらにその一歩先を行きます。すなわち、人間という情報処理システムがいるおかげで、宇宙という情報がこのように目の前で展開されているのだ。宇宙がそのようにあるから、そう観測されたのではない。宇宙をそのように観測し、情報を処理したからこそ、このように都合のいい結果となったのだ、というわけです。

情報を《読む》ということ

たとえば、何気なく天井の染みを見たところ、そこに日本語らしきものが書いてあったとします。そこでコペルニクス原理の論者は「偶然そうなっただけだ。確率は小さいが決してゼロではない」と言います。しかし、人間原理の論者は「いや、この日本語は自分たちが書いたのかもしれない。そもそもこんな都合のいいことが自然に起きるものか」と反論します。さらに「ビットからイット(It from bit)」理論はこう言います。
「そこに日本語が書かれているわけではない。それは単なるデタラメな情報にすぎない。しかし日本語が読めるものにとっては、それはまさしく日本語として映る。つまり、そのように《在る》のではなく、そのように《読める》というだけだ
宇宙についても同じだ。宇宙はそのように《在る》のではなく、私たちの情報処理システムがそのように《読んでいる》のだ。あたかも日本語を《読んでいる》かのように。情報を処理するというのは自分たちの都合のいいように観測するということでもある。だから物理定数が人間たちに都合のいいようにできているのも当然だ。私たちがそのように情報を処理したのだ。
日本語が分かるものがいるからこそ、この文章も意味を成す。日本語が分かるものがいるからこそ、日本語によって表現される世界がある。ビットをイットに変えるのは、そのように情報を処理する読者だ。そして観測とは、ビットをイットに変える瞬間なのだ。
もう一度、この文章を読み返してほしい。そこに何らかの意味を見出せたら、あなたもまたビットをイットに変える能力者だ。宇宙を決定している情報処理者だ」。

《情報処理》の特権的な役割

情報処理者の特権性は、一度そのように情報を読み出したら、そのルールにそぐわない情報を排除してでも、情報の首尾一貫性を保つ、という点にあります。たとえば一度日本語で読もうと決めたら、下の画像はもはや画像とはなりえません。

ちゃんと「誰が得するんだよこの書評」と読めてしまうのです。(文字をひとつずつ見てみると、日本語ではありません。余計な線がたくさんついています。「いや、どうみても日本語だろ。要らない線は背景に決まってるじゃん」という反論も的外れです。知らず知らずのうちに日本語として余分なものを背景だと決めつけ、そのように《情報処理》しているからです)。
つまり、日本語という情報処理システムそのものがノイズを排除し、自分にとって都合のいいようにデータを配置しなおしたのです。このように日本語が読めるからと言って誰も「奇跡的な偶然だ」「いや、自分たちが書いたのかもしれない」とは思わないでしょう。日本語で読もうとしたからこそ、ランダムなビットデータではなく、日本語として読めたのです。私たちの宇宙も同じです。そのように読んでしまったがために、たとえそれがどんなに都合のいい物語でも、もはや他のやり方では読むことができません。ご都合主義の綻びは、情報処理の過程自体が潰していたのです。
以上が「ビットからイット(It from bit)」理論です。以下、補足。

宗教にネタにされないために

「はじめに言葉ありき」とは聖書の有名な一節ですが、
本当は「はじめに読者ありき」だったのです。読者こそが、虚無から意味のある言葉(bit)をたぐり寄せたのです。まるで、てんでバラバラな夜空の星々から星座という物語を紡ぎあげたかのように。この物語を通してみると、星々が奇跡的に都合よく配置されたかのように勘違いしてしまいます。しかし、そもそもそんな物語をでっちあげたのは私たち読者なのです。自分でそのように読んどきながら「宇宙って奇跡的だよなあ……。これってマジ神の御業じゃね?」などと信仰に目覚めるのは笑止千万。量子力学を宗教的に解釈するのは痛々しいってもんじゃありません。イタいです。ホイーラーだって草葉の陰で泣いてますぜ。

あとがき

なんだか大変な話になってしまいました。非主流派宇宙論グレッグ・イーガン「万物理論」でも言及されているように、傍から見たらオカルトです。理論武装が完璧なため、ある意味中二病よりも厄介なので取り扱いには注意が必要です。あと言わなくても分かるでしょうが、この論説はSFやポピュラーサイエンスで得た付け焼刃の知識をベースにしています。学術的な意味で正しい保証はありません。

*1:カント哲学における物自体みないなもんです。

*2:量子力学は、世界をありのままに100%正確に捉えることが不可能だということを証明しました。ハイゼンベルク不確定性原理と呼ばれるこの定理は、「粒子の運動量と位置を同時に正確には測ることができない」というものです。観測するとは物体に干渉することでもあります。この文字を知覚しているあなたも、文字そのものではなく、文字に反射した光子を知覚しているのです。物体がマクロレベルなら干渉はたいした影響は与えませんが、ミクロレベルでは観測に支障をきたすほどとなります。たとえるなら、闇の中を転がる野球ボールに無数のバレーボールを投げつけて位置を調べるみたいなもんです。これが大型トラックなら、跳ね返ったバレーボールの動きを調べて、対象の大まかな位置を捉えられそうですが、野球ボールではバレーボールを当てた瞬間どっか飛んでってしまい、正確な測定は無理でしょう。

*3:物質的な最小単位として知られる量子は、100%そこに在る山や太陽のような確かな存在などではありません。この部分は確率的に濃い、この部分は確率的に薄い、といったように確率的に存在しているのです。100%《在る》のではなく、存在の濃度が濃いか薄いかのパターンなのです。つまり世界は存在の濃さという情報によって構築されていると言えます。